俳句的生活(189)ー外国人遊歩規定ー

徳川幕府が、米英を始めとする列強5か国と結んだ、いわゆる不平等条約といわれた安政の修好通商条約には、「外国人遊歩規定」と呼ばれた条項が入っていました。横浜居留地でいえば、東は五里先の六郷川まで、西は十里先の酒匂川までが、外国人居留民が自由に行き来出来るエリアでした。幕府としては、表向きは攘夷から外国人の身の安全を守るため、ということでしたが、勝手に国内を移動されては、体制の維持に不都合が生じるのを恐れたためでした。米国が清国と結んだ条約では、清国内の自由な旅行が認められていましたので、幕府は米国から、大きな譲歩を勝ち取っていたといえます。

この条項は、条約を改正しない限り有効で、維新後も継続されていました。列強の側は、この条項の撤廃を求めてきましたが、日本側としては、領事裁判権を認めたままでの撤廃は断じて出来ず、病気療養や特別な理由がある場合に、「内地旅行免状」という許可証を発給して対応しました。この許可証の発行はそれほど厳格になされたものではなく、明治11年、箱根宮の下に創業した富士屋ホテルには、多くの外国人が投宿した記録が残されています。富士屋ホテルは、外国人向けのホテルとして発展し、戦後の占領期間中はGHQに接収されました(添付5)が、それにより反って垢抜けしたホテルとなり、現在に至っています。

ところで外国側は、遊歩規定で記載されている十里というのが、実際はどこまでを指すのかが明確でないとして、異議の申し立てを続けていました。既に伊能図というのがあったにも関わらずです。そこで明治9年、政府はイギリス人技師の立ち合いのもと、神奈川県内の60ヵ所に標石を設置して三角測量を実施し、十里がどこまでであるのかを実証しました。結果は伊能図と寸分違わないことになり、諸外国は大いに驚いたということです。(伊能忠敬の測量は、原理的には三角測量を取り入れたものになっています。それは、鉄の鎖で次のポールまでの距離を特定し、測量望遠鏡でポールへの角度を測っていくものですが、それだけでは誤差が積み重なっていくので、2地点から遠くの共通目標物への角度も測り、毎晩宿で誤差の補正を行っていったのです。)

60ヵ所の標石のうち、茅ヶ崎には、次の4ヵ所に測量標石が置かれました。

① 下寺尾
② 赤羽根
③ 浜之郷
④ 堤

①と②のものは、撤去されて、現在、国土地理院で保管されています。③は個人の畑地に現存しています。④はもともとは、小出小学校の近くにあったものが、現在、浄見寺前の旧和田家住宅(添付1)の、西側の緑地に、下寺尾の七堂伽藍跡の5個の礎石(添付2,3)と並んで置かれています。上部は縦横30cmの正方形の石で、そこには「第十七号 測点 地理寮」の文字が刻まれています(添付4)。

外国人遊歩規定は、明治32年に漸く、治外法権の撤廃と抱き合わせで停止されました。関税の自主設定権の確保は、日露戦争に勝利するまで待たなければなりませんでした。

晩学を言祝ぐごとき蛙かな

添付1
添付2
添付3
添付4
添付5
富士屋ホテルの歴史を知る | おすすめ | 【公式】富士屋ホテル (fujiyahotel.jp)より