鬼を狩る子孫 第五話 いじめ(5)

影の主

翌日の昼休み、教室の空気はまだ重かった。黒板の隅には、かすかに消し跡の残った文字――「みんな、見てたよね」――が薄く浮かんでいる。誰も話題にしない。だが、話さないこと自体が何かを語っているようだった。

「……なあ、神原って、あのときも一緒に笑ってたよな」

蓮が小声で言った。悠夜はうなずく。

「一番前で。みんなの中心で」
「けど、神原ってクラスの人気者やん。悪気なんてないって言うんやろな」
「 “みんな笑ってた” って」

悠夜の口から、冷えた言葉が落ちた。

放課後、嵐山が職員室から顔を出した。

「おまえら、ちょっと手ぇ貸してくれ」

呼ばれるままについていくと、掲示板の前に神原が立っていた。その横には、教頭が腕を組んでいる。掲示板には、保護者会で使われる資料の貼り紙。だが、その隅に小さく鉛筆で書かれた落書きがあった。

――キモい転入生――

「……俺じゃねぇ」

神原の声が震えていた。

「俺、そんなこと書くわけねぇだろ。みんなが笑ってたし、ただ……流れで」

教頭が冷たい声で遮った。

「もういい。これ以上は問題を大きくするな。子どものちょっとした悪ふざけだ」

嵐山の表情がわずかに曇った。

「悪ふざけ、ねえ。せやけどな、笑うてるとき、人は自分の顔を見えへんのや」

創作小説の挿絵

教頭が眉をひそめる。

「先生、それはどういう……」
「簡単なことや。笑うてる最中は、誰かを見下ろしとる顔になっとることに気づかへん。せやけどな、あとで鏡見たら、そいつはもう “自分やない顔” や」

神原は俯いたまま、拳を握りしめていた。嵐山は静かに続けた。

「おまえが悪人やとは思うてへん。けどな、心の中で “みんなが笑ってた” って言葉を盾にしとるやろ。その盾、鬼がつけてくれたもんや」
「鬼……?」

神原が顔を上げた。

「人の心におるんや。おまえが笑われへんように、先に笑えって囁くやつや。“守ったつもり” が “攻めたこと” になる――そういうやつや」

教頭は苛立ったように咳払いをした。

「嵐山先生、もうよろしいでしょう。これは担任と家庭で処理します」

嵐山はゆっくりとうなずいた。

「ほな、あとは風に任せまひょ」

教頭と神原が去ったあと、悠夜が小さくつぶやいた。

「風って……?」

嵐山は笑った。

「心がよどんどる時にな、ちょっとした風が通るんや。痛いけど、それで空気が変わる。せやから、“見てたよね” の一言は、風や。痛い風やけど、必要な風や」

窓の外では、薄雲を透かして春の光が差していた。その光が教室の黒板を照らし、うっすらと残る「みんな、見てたよね」の文字を、もう一度、白く浮かび上がらせた。