鬼を狩る子孫 第五話 いじめ(6)

闇の声

夜が降りていた。
神原の部屋には、机の上のスマートフォンの光だけが残っていた。通知が絶え、静寂が広がる。けれど、その静けさが妙に重たく感じられた。心臓の鼓動が、壁に反射して返ってくるようだった。

「……俺、悪くない」

神原は呟いた。その声は空気に吸い込まれ、消えるはずだった。

だが、応える声があった。

――「そうだ。おまえは悪くない。」

神原は顔を上げた。部屋の中に誰もいない。なのに声は、確かに耳のすぐ傍で響いた。

「……誰だ」
――「おまえの中にいるもの。おまえを支えてきたもの。」

神原の喉が鳴った。

創作小説の挿絵

「支えてきた……?」
――「そうだ。
  おまえが笑ったときも、黙ったときも、
  おれはおまえの中で耳打ちしてきた。
  “今は笑え” “そうすれば傷つかずにすむ” ――とな。」

声は湿った風のようだった。

「……俺が、笑ったのは……」
――「生き延びるためだ。笑ったのは罪ではない。おまえはただ、自分を守っただけだ。」

神原は唇を噛んだ。

「俺が……守った?」
――「そう。おまえ自身を。
  誰かを傷つけるより先に、傷つけられたくなかった――それだけのことだ。」

声が、床を這うように低くなる。窓の外の街灯の光がカーテンの隙間から差し込み、壁に長い影を落とした。

影がゆっくりと動いた。やがて、それは神原と同じ形をとった。

――「おまえは間違っていない。
  あの転入生が笑われたのは、おまえのせいじゃない。
  むしろ、おまえが笑ったから、他の誰も笑われずに済んだのだ。」

神原の指が震えた。その理屈は、どこか正しいように聞こえた。それが恐ろしかった。

「……みんなが笑ってたんだ。俺だけじゃない」
――「そう。
  みんな同じだ。
  ただ、おまえだけが勇気を出した。
  他人より一歩早く、笑いを覚えたんだ。
  それを人は “悪” と呼ぶ。
  だがな、悪って何だ?生きたいと思う心を、悪と呼ぶのか?」

神原の胸の奥で、何かがほどけていくようだった。心の中の言い訳が、ゆっくりと理屈に変わっていく。

――「正義を語る奴は、怖いからだ。
  自分の中の闇を見たくないから、
  “悪いのはおまえだ” と言って目を逸らす。
  おまえは、それを鏡に映しただけ。
  彼らの恐れを、形にしただけ。」

影が笑った。その笑いは、どこかで聞いた自分の声に似ていた。

「……俺は……悪くない」
――「そうだ。
  おまえは悪くない。
  悪いのは、笑いを禁じた世界だ。
  正義の仮面をかぶった沈黙だ。」

影がにじり寄り、神原の肩に触れた。その瞬間、体の芯が冷たくなったのに、心は妙に軽くなった。

――「おまえと俺は一つだ。
  俺がいる限り、おまえは孤独じゃない。」

神原の唇がかすかに動いた。

「……ありがとう」

電灯が一瞬、ちらりと明滅した。影は壁に溶け、音もなく消えた。窓の外では、風もないのにカーテンがゆらりと揺れた。

神原は深く息を吐き、机の上のスマートフォンを手に取った。グループチャットの画面が光る。そこには笑いのスタンプが並んでいた。その笑いが、まるで呪文のように見えた。そして、心の奥で再び声がした。

――「おまえは悪くない。」

今度の声は、確かに神原自身の声だった。