鬼を狩る子孫 第五話 いじめ(2) 

沈黙の輪

翌日、教室の空気は一段と重くなっていた。
真衣は休み時間のたびにノートを抱えて教室の隅へ移動する。
声をかける生徒はいない。
黒板に書かれた文字が新しい一時間を告げても、
その静けさは崩れなかった。

蓮が小声で言った。

「なあ悠夜、今日も誰も話しかけてないぞ」
「……見てるだけだと、あいつらますます図に乗るよ」
「先生に言ったら?」
「言ったって、“様子を見ましょう” で終わりだよ」

担任の川村が入ってきた。
シャツの襟を整え、いつものように明るい声を出す。

「はい、席につけー。今日から理科の単元は “力のはたらき” な」教室の隅では、真衣の机の下に何かが落ちていた。

白い紙の切れ端。

悠夜が授業の合間に目をやると、そこには鉛筆で雑に書かれた言葉が見えた。

 ――「キモい」

創作小説の挿絵

真衣は足でそっとそれを隠した。

川村は黒板の前で笑っている。
その笑顔が、何かを見ないようにしているように見えた。

放課後。

悠夜と蓮が靴箱の前を通ると、真衣の靴が片方だけ外に放り出されていた。誰がやったのか、近くにいた生徒たちは目をそらす。

「知らない」
「見てない」
「そんなの、あった?」

その “見てない” の輪が、まるで透明な膜のように広がっていく。中にいる者も外にいる者も、その膜を破ろうとはしない。

職員室の前を通りかかると、嵐山が窓際でコーヒーをすすっていた。灰色の背広にノーネクタイ、シャツの襟元が少しゆるんでいる。

悠夜の顔を見ると、にやりと笑った。

「おう、ようやっとんな。どないしたんや、そんな顔して」
「……先生、教室の空気が変なんです」
「空気なあ。風みたいに形がないくせに、人を押す力は強いもんや」
「見て見ぬふりをしてる人が多い気がして」
「人はな、ほんまは “あかん” て分かっとるから、見んようにするんや。知らんふりのほうが気ぃ楽やろ?」
「じゃあ、どうすれば……」

嵐山は笑い、カップを傾けた。

「せやけど、空気がこもっとるなら、誰かが窓を開けたらええ。風が通ったら、みんな少しは息しやすうなる。」

悠夜はその言葉の意味を考えながら、職員室を出た。

夕陽が廊下の床を橙色に染めている。その光の先で、真衣が上履きを拾い上げていた。誰に手伝われることもなく。その背中が小さく見えた。

窓の外では、放課後の風がカーテンを揺らしていた。

その影の中に、黒いものが一瞬だけ立ち上がる。
形は曖昧で、人影にも獣にも見えた。

――「見えてるくせに、なにも感じんのか……」

その声は、風にまぎれて消えた。
だが悠夜の胸の奥には、確かに残響のように響いていた。