俳句的生活(299)-更科紀行(2)木曽の桟(かけはし)-

芭蕉は晩年の10年の間に、通算で4年9か月を旅に暮らしています。その中で、木曽路を歩いたのは、この『更科紀行』が唯一のものとなっています。『更科紀行』は、貞享四年(1687年)10月25日に江戸を発ち貞享五年8月下旬に江戸に帰着するまでの10か月の旅を記した『笈の小文』の中の、帰路に選んだ木曽の旅路を記した紀行文です。

「更科紀行」のルート
更科紀行のルート(Skima信州HPより)

岐阜から軽井沢までの約300kmは、島崎藤村の『夜明け前』の書き出しにあるように、ほとんどが山の中の道です。その中でも最大の難所は「木曽の桟(かけはし)」でした。桟とは渓谷の崖に杭を打ち込み、その上に板を敷いて人が通れるようにしたものです。

現在の「木曽の桟」
現在の「木曽の桟」(ウイキペディアより)

現在の「木曽の桟」は上の写真のように、木材のものは残念ながら遺っていなく、車道となっています。江戸時代に描かれた絵図は次のようなものです。

江戸時代の木曾の桟

ここで芭蕉は次の句を詠んでいます。

桟や命をからむ蔦葛(つたかづら)

芭蕉の頃は未だ木の桟が残っていて、そこに蔦葛が巻き付いていた、ということでしょうか。

桟を現在でもそのままに残しているのは「蜀の桟道」です。

蜀の桟道
蜀の桟道(Wikimedia Commonsより)

蜀の桟道は、諸葛孔明が魏を討とうと何度も北伐の軍を通過させた道です。滝廉太郎の箱根八里では二番の歌詞で、箱根の険しさを「蜀の桟道 數ならず(蜀の桟道すらも比べ物にならない)」と表現しています。

私が「木曽の桟」というものを始めて知った切っ掛けは、橋幸夫が1961年に歌って大ヒットさせた「木曽節三度笠」の二番の歌詞でした。

木曽の桟 太田の渡し
越えて鵜沼が発ちにくい

というもので、作詞者は佐伯孝夫、戦前には「湯島の白梅」を作詞した人です。当時は地名が判っていないまま歌っていたのですが、七七七五のリズムになっていて、名歌詞だと思います。

桟や爽気流るる木曽の川  游々子