俳句的生活(298)-更科紀行(1)-

貞享五年八月十一日、芭蕉は信州更科の仲秋の月を愛でる目的で美濃を出立します。更科紀行の始まりです。姨捨山で名月を詠んだ八月十五日、和暦のこの日が西暦ではいつだったかを調べてみると、1688年9月9日となっています。9月9日といえば今日の日付。重陽の節句で菊の酒を嗜むのは陰暦でないと食用菊が手にはいらないので、今日はそれは諦めて、折角の機会ですので、芭蕉の旅の日付を追って本稿を記してみようと思います。

貞享五年という年は、9月30日に元禄と改元されていて、奥の細道に旅立ったのが元禄二年ですから、その前年ということになります。

芭蕉が更科への旅を思いついたのは、6月上旬にまで遡ることが出来ます。この時期の句に

この蛍田毎(たごと)の月にくらべみん

というのがあり、前書きには木曽路の旅を思ひ立ちて大津にとどまるころ、まづ瀬田の蛍を見に出でてと記されています。

信州更科の姨捨山は棚田で有名な処です。

姨捨の棚田
姨捨の棚田(信州千曲観光局HPより)

田毎の月とは、棚田に水を張り、田植え前の期間に月が一枚一枚の棚田毎に映ったものを指したものです。

田毎の月
姨捨の田毎の月(同上)

姨捨山の月は古今集に、わが心慰めかねつ更科や姨捨山に照る月を見てという歌が採取されていて、芭蕉はこの歌より旅情を誘われたのでしょう。更科紀行には、更科の里、姨捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて と記されています。現代のこの時期、いまだに30度を超える猛暑が続いていて、秋風はいつのことかと思いやられます。芭蕉の時期の気温は、現代よりも5度くらい低かったに相違ありません。

そばの花田毎に白く後の月  游々子