鬼を狩る子孫 第二部・過去編 第三章 南都の影(10)
第十回 消える帳面
襲撃のあったその日の夕刻。
東大寺の裏手にある仮の詰所には、
重い空気が溜まっていた。
割られた銭箱は並べられ、
中身は改めて数え直されている。
「……合わん」
帳面を見ていた僧が、低く言った。
「どれほど違う」
別の僧が問う。
「三割ほど、少ない」
ざわめきが走る。
権太が鼻で笑った。
「盗られる前から抜かれとった、いうことやな」
誰も否定しなかった。
玄之助は部屋の隅に立っていた。
壁にもたれ、
静かに様子を見ている。
朔太郎は帳面を覗き込んだ。
「この銭、どこでまとめた」
「町の集積所だ」
僧が答える。
「商人が預かり、
勧進の分を仕分けて運ぶ」
権太が肩をすくめた。
「寺が集めて、町が数えて、武が守る、か」
「きれいに分かれとるな」
玄之助がぼそりと言う。
「だから崩しやすい」
そのとき、
戸口に一人の男が現れた。
町衆の装い。
細身で、目がよく動く。
「……話は聞きました」
低く頭を下げる。
「町の方の者か」
僧が問う。
「はい。銭の取りまとめをしております、弥七と申します」
玄之助の視線が、男に向く。
弥七は柔らかく笑っていた。
だがその目は笑っていない。
「帳面を見せてもらえますか」
弥七はそう言って、自然に中へ入った。
誰も止めない。
町の者が銭を扱うのは、当たり前だからだ。
だが――
朔太郎はわずかに眉をひそめた。
(軽すぎる)
男の足取りが、軽すぎる。
弥七は帳面をめくる。
ぱら、ぱら、と。
指先が止まる。
「……おかしいですね」
静かな声だった。
「何がだ」
玄之助が言う。
弥七は顔を上げた。
「この数、帳面の写しと合いません」
「写し?」
権太が聞き返す。
「はい。町で控えている帳面です」
空気が変わる。
「……控えがあるのか」
僧が言う。
「当然です」
弥七は笑った。
「銭は、記すものですから」
玄之助の目が細くなる。
「その帳面、今ここにあるか」
弥七は首を振った。
「町の蔵に置いてあります」
「案内してもらおか」
権太が一歩出る。
弥七は少しだけ間を置いてから、頷いた。
「ええ、構いません」
夜が落ちるころ。
三人は弥七に連れられ、町へ向かった。
南都の通りはまだ明るい。
だが裏へ入ると、
灯りは急に減る。
「こっちです」
弥七が先を行く。
細い路地。
湿った土の匂い。
遠くで犬が吠える。
「……静かやな」
権太が言う。
「こんなもんです」
弥七は振り返らない。
「銭は表に出ません」
やがて、一軒の蔵の前で足を止めた。
「ここです」
鍵を取り出す。
だが――
玄之助がその手を押さえた。
「待て」
弥七の動きが止まる。
「どうしました」
「軽い」
玄之助は言った。
「おぬし、さっきから軽すぎる」
沈黙。
風が吹く。
次の瞬間。
弥七の肘が、鋭く跳ねた。
玄之助の脇を狙う。
だが、棒がそれを受けた。
「やっぱりか」
権太が笑う。
闇の中から、足音がした。
複数。
囲まれている。
弥七が後ろへ退く。
その顔から、商人の柔らかさは消えていた。

「……気づかれましたか」
「最初から怪しかったわ」
権太が言う。
「帳面はどこだ」
玄之助が問う。
弥七は答えない。
代わりに言った。
「銭は、流れるものです」
「寺のものでも、町のものでもない」
「力のあるところへ行く」
「その力、誰や」
朔太郎が低く言う。
弥七は、わずかに笑った。
「……知りたいですか」
そのとき――
背後で、刃が光った。
玄之助の棒が、闇を裂く。
乾いた音。
男が倒れる。
権太が笑いながら突っ込む。
「今度はこっちからや!」
乱闘が始まる。
狭い路地。
逃げ場はない。
だが弥七は動かなかった。
ただ一歩、後ろへ退く。
「遅いですよ」
小さく呟く。
その目は、三人ではなく――
もっと先を見ていた。
「……おるな」
玄之助が言った。
「もっと上が」
南都の夜は、静かだった。
だがその奥で、
銭はさらに流れ、
影はさらに深くなっていた。
次回への布石
第10回で
- 町衆(弥七)が関与
- 帳面=証拠の存在
- さらに上位の黒幕の存在
を提示しました。
第11回予告(構想)
- 寺の上層(勧進を仕切る僧 or 僧形武士)登場
- 「銭の流れ」が明確化
- 武の側の思惑も浮上
👉 三者の頂点が揃う回になります
この流れで第12回まで一気に締められます。
挿絵(路地の夜襲)も必要でしたらすぐ描けます。

