俳句的生活(297)-芭蕉の詠んだ京・近江(21)最後の旅立ち(6)終焉-
九月八日の夕に一日早く重陽の節句を奈良で祝った芭蕉一行は、翌九日の朝に大阪に向けて出立し、その日の内に到着しています。木津川で船に乗り、京都伏見で三十石船に乗り替えて淀川を下るコースです。大阪の門弟が二派に分かれて対立していたのを調停するための大阪下向でしたが、体調の勝れていない芭蕉にとって、大阪への旅は負担が大きく、幻住庵を提供してくれた近江の門弟には、この大阪での滞在を ”おもしろからぬ旅寝” と手紙で伝えています。大阪到着直後から芭蕉は発熱し、寒気や頭痛に襲われることになります。終焉を迎えるのはわずか1か月後のことでした。
芭蕉は体調の悪い中、連日のように対立する二派の合同句会に参加し、泊まる処も公平を期して二派の居宅となるよう配慮しています。心労の続く中ですが、それでも芭蕉はこの時期に名句と評価されている句をいくつか詠んでいます。
この道や行く人なしに秋のくれ
此秋は何で年よる雲に鳥
秋深き隣は何をする人ぞ
これらの句からは、老いた芭蕉のつぶやくような孤独感がにじみ出ています。
このときの対立する二派というのは、一つは大阪を地元とする門弟で、もう一つは近江の膳所から大阪に移住した門弟でした。この二派が大阪での俳句界の主導権を巡って争うというもので、調停を芭蕉に依頼してきたのは膳所で芭蕉に幻住庵を提供した門弟という構図となっていました。この膳所の門弟から芭蕉は経済的な支援を受けており、気が重いながらも断ることが出来なかったのでした。
江戸を出立する時、芭蕉は心気安い膳所の門弟たちと西国を旅することを思い描いていました。それは最も信頼を寄せていた去来の出身地である長崎、敬愛する西行が訪れていた安芸の厳島神社や讃岐の崇徳上皇の配流地を訪ねようとするものでした。病に斃れた芭蕉が病床の中で詠んだ次の句は、そうした西国への旅を夢みたものに違いありません。
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる (元禄七年十月八日 芭蕉51歳)
この句を詠んで4日後の十月十二日、芭蕉は不帰の旅立ちをします。最後に芭蕉の脈を診たのは膳所から呼ばれていた医師でした。遺体はその日の夜、門弟たちによって淀川を船で遡り、十三日の昼過ぎに湖南の義仲寺に届けられています。翌十四日に荼毘に付され、午後2時ごろに義仲寺境内の木曽義仲の塚の脇に埋葬されました。門人の焼香者は80人、会葬者は300余人であったと、門弟が遺した記録には書かれています。(この稿了)
眠りても胸より去らぬ月の山 游々子