俳句的生活(288)-北村季吟ー
今年のNHK大河は、「光る君へ」というタイトルで紫式部を主人公としたドラマになっています。視聴率は今ひとつのようですが、私自身は面白く見ています。
NHKはプロモーションも兼ねているのか、ラジオの「古典講読」では「名場面でつづる『源氏物語』」という番組を放送しています。この講義では、江戸時代に著された『源氏物語湖月抄』というのを基に進められています。私はこの講義を聴くまで、著者が芭蕉の俳諧の師匠であった北村季吟という人であったことを知りませんでした。

更にこの著書によって、既に平安時代の古文は読めなくなっていた江戸時代の人たちが源氏物語を原文で読めるようになったということ、そして明治になっては、源氏物語の口語訳の先駆となった与謝野晶子が少女時代に源氏物語を原文で読めたのは、ひとえにこの著書によるものであった、ということも初めて知りました。

北村季吟という人は、芭蕉よりも31年長く生きた俳人・歌学者で、その82年の生涯は51歳まで生きた芭蕉をすっぽりとカバーするようになっています。彼は近江で生まれ、青壮年時代は京都に邸宅を構えています。芭蕉が門に入るのは季吟が京都に居た時で、邸宅の場所は ”間ノ町二条下ル” という処、大きな通りで云うと、烏丸二条の少し南東になります。偶然ですが、芭蕉が落柿舎を出たあとに寄寓した凡兆の家は烏丸丸太町の少し北西の処でしたから、その間の距離は、歩いて10分も掛からない、という近さでした。
季吟が凄いのは、元禄3年、季吟66歳の時に幕府より初代の「歌学方」を拝命したことです。その背景には『源氏物語湖月抄』は15年前に四代将軍の徳川家綱に献上されており、前年の元禄2年には『万葉拾穂抄』が五代将軍の徳川綱吉にも献上されていたのです。勿論こうしたことには有力な推挙人が必要で、今一番可能性が高いと目されているのは、家康の曽孫に当たる松平直矩という文化人大名で、その大名が季吟とも交流があったことによるとされています。

季吟の俸禄は最終的には米800俵にまで増えています。1俵は4斗ですから、石高でいうと320石になります。中級武士といわれている毛利藩の桂小五郎や高杉晋作はそれぞれ100石、150石でしたから、破格の待遇でありました。現在の価値でいえば、3000万円の年俸ということになります。
江戸での季吟は、学問好きの柳沢吉保とも親交を持つことになります。吉保が造った六義園には、京都から新玉津島神社の勧請がされています。この神社には平安末期の歌人で千載集を編纂した藤原俊成が祀られていて、季吟は江戸に旅立つ直前まで、この神社の宮司となっていたのです。
ところで、芭蕉を季吟に引き合わせたのは、伊賀上野時代に芭蕉が仕えた藤堂良忠という伊勢津藩32万石の藤堂家で侍大将を務める家の若殿で、蝉吟という俳号を持つ俳人でした。蝉吟は季吟を師匠とし、その縁で芭蕉を季吟に紹介していたのです。良忠は25歳という若さで死んだため、芭蕉は藤堂家で武士として生きていくことを諦めて俳諧師となったのでした。芭蕉の次の有名な句は、良忠の死から22年経った元禄元年3月に、旧主藤堂家の花見に招かれて、懐旧の気持ちを詠んだものです。
さまざまの事おもひ出す桜かな (元禄元年3月 芭蕉45歳)
この懐旧の句は、主君であった良忠を懐旧するだけのことではなく、芭蕉といえど若い時には当然のことながら、”仕官に懸命” の時期があり、それらを含めての懐旧の句でありました。
芭蕉の俳号は、当初は「桃青」というものでしたが、この俳号を授けたのは季吟で、次のような餞の句を詠んでいます。
桃柳風に任せよ風羅坊 (延宝三年(1675) 季吟51歳)
季吟の俳句の師匠は松永貞徳で、明らかに初期俳諧の風を引きづった句となっています。
季吟と芭蕉は、奥の細道の前後に、顔を合わせてもよい機会は何度も生じていますが、どちらの人物史を見てもそれを記述したのは見当たりません。芭蕉の壮年以降、あまりにも生き方が異なったので、双方敬遠していたのかも知れません。収入の道を絶ってでも芸術を追求する生き方と、学問の道の中であっても栄耀を求めた生き方と、どちらが現代の我々に訴求する生き方であることでしょうか。