満蒙への道(40)-終章ー

臥薪嘗胆から暴支膺懲まで、半世紀近くに亙るわが国の満蒙への進出と瓦解を新聞記事を切り口にして浮き彫りにしようとした本稿も、漸く終章を迎えることになりました。当初、筆者(游々子)が抱いた問題意識、即ち、終戦50年目の村山談話ーどの内閣のいかなる国策が日本を誤らせたのかー そして日本は今後どのように未来に向かっていくべきか、について答えは得られたであろうか。

 やはり、と筆者が思わざるを得ないのは、日露戦争後に強欲(greed)が日本を蔽ったことが最大の誤りだったということです。満州国を成立させた段階でそれ以降の侵略をうち止めにしておけば全てがうまくいった、という論がありますが、水野広徳が指摘したように、満州を領有したことは、反って日本の安全保障を不安定にしただけであって、真珠湾への道は不可避であったように思います。満州領有を満蒙問題解決の切り札とした石原莞爾たちの読みは当りませんでした。

時間を少し巻き戻して、対華21か条要求さえ出さなかったら、その後の中国の対日政策は反日・侮日とならずに日本の満蒙権益は安定したものになっていたでしょうか。即ち租借期限の切れる8年後の大正12年に日本は平和裏に旅順・大連の租借地を返還し、満鉄の保有を除いて日露戦争前の状態に戻ることを日本は許容したでしょうか。筆者の見解は否です。強欲になった日本からはその姿は湧いて来ません。よしんば百歩譲って日本が租借地返還に応じたとした場合、果して中国はそれに満足して、以後反日政策を採ることを止めたでしょうか。これに対しても筆者は否と考えます。その理由は、中国はポーツマス条約の後に結ばれた「満州に関する日清条約」を恨みをもってみていたからです。清は、日露戦争で日本は満州に居座るロシアを駆逐して、中国に主権を戻してくれるものと期待し、表向きは中立の立場をとりつつ実質は日本に協力した、にも関わらずだったからです。

日露戦争以後、日本は国際社会の中で信頼と尊敬を失い、坂を転げ落ちるように、破滅への道を進みました。それは満蒙の権益を守るということを至上命題として、広く世界に眼を向けることを停止してしまったがためです。ポーツマス講和のあと、日本は満州を単独経営していくことを国策としました。明治の指導者によるこの選択が誤りであり、大正・昭和の政治家や軍閥はこの路線の推進者であったに過ぎないのです。

それでは明治38年9月以降、朝河貫一が主張したような “正義” を日本が国策として選択する道はあり得たでしょうか。筆者の答えはここでも否です。それは臥薪嘗胆の末に10万の戦死者を出して掴んだ戦勝に代償を求めるのは抗いがたい自然の成り行きだったからです。不幸なことは国民の求めた代償が “正義” が許容する代償を逸脱し、さらに膨張してしまったことにあります。

ウッドハウス暎子女史の著作に「日露戦争を演出した男モリソン」というノンフィクションがあります。これを読むと日露の開戦を望み画策した勢力があったことがわかります。それも同盟国の内側においてなのです。日本の為政者はこうした国際政治を熟知したうえで、戦争中に得られた支持の理由を理解し、その上で日露戦争後の政策を決定していったのでしょうか。筆者はここでも否と推測せざるを得ないのです。

日露戦争とは、満州の権益をめぐっての戦いではなく、朝鮮への影響力をめぐってのロシアとの覇権争いでした。日清戦争で成就した戦争目的をロシアによって侵されそうになったための戦争でした。日清戦争の結果、日露戦争の惹起は必然的なものだったのです。

本稿では触れませんでしたが、明治19年に「長崎事件」というものが起こりました。示威行動として長崎に寄港した定遠、鎮遠をはじめとする清国北洋艦隊の水兵が、上陸後に長崎の遊郭や交番で狼藉をはたらき、騒擾となった事件です。当時、日本の海軍力は貧弱で、定遠・鎮遠が7千トンの戦艦であったのにたいして、日本の戦艦は4千トンどまりでした。このため、清国との戦争に自信を持てなかった政府は強い抗議をすることすら出来ませんでした。また、明治24年の大津事件では、ロシアとの戦争になることに恐怖した政府は、涙ぐましいまでの対応処置を講じています。

“強くなければ悔しい思いをする”、ペリーの武力恫喝によっての開国以来、この思いを抱き続けてきた “侍の国” が強兵を国是としたのは自然のなりゆきでした。その日本の軍事力の使い方としてエポックメイキングな出来事になるのが、明治15年に朝鮮でおこった壬午軍乱の結果、漢城(ソウル)の日本公使館守備のために1個大隊を駐留させたことです。壬午軍乱とは当時の閔氏政権にたいして、大院君が反閔氏、反日を指針として、旧式軍隊を煽って起こさせた動乱です。日本は別枝軍と称された新式軍隊に数名の将校を軍事顧問として送っていたために、日本公使館は旧式軍隊の攻撃にあい、公使館員や軍人が十数名死亡する事件となりました。このような経緯の後に守備隊を駐留させることになったのですが、この軍隊を派遣するということが、12年後におこる日清戦争の素地となったのです。また、この当時の反日気運は7年前の江華島事件で、日本が朝鮮の鎖国政策に終止符を打たせ、武力を背景として開国をせまり、日本が幕末時に結ばされたと同様の不平等条約を結ばせたことにも起因していました。

村山談話の問題点の解答を得るために、今筆者は明治の初めの頃にまで時代を遡っていますが、この頃の対朝鮮政策が、日露戦争の遠因となり、その後の満蒙問題につながっていったのは間違いありません。

筆者がたどり着いた結論は、日本は明治初期に、朝鮮半島を含めて大陸のことにヘタに関わるべきでなかった、というものです。開国進取を国是としたのなら、価値観を共有できる国とのパートナーシップを目指すべきであり、鎖国政策をとる李氏朝鮮が江戸時代のままの交隣関係を望んだのであれば、政権交代をしたからといって明治政府は、砲艦外交をしてまで新外交関係を迫ることはなかったということです。日本が共有できる価値観とは、公正な競争を国の発展の原動力であると位置づけ、科学技術と通商貿易により富国を目指すことを国の指針とするものであって、それとは異なる門閥や専制によって統治されている国の問題に深入りすべきではなかった。あえて火種に近づくことはなかった。東北アジアが提携して西欧列強に向かうという大アジア主義路線は誤りであると思います。価値観が異なるところに提携はあり得ないのです。

戦後の現在もそうですが、戦前においても日本のような中規模の国が単独で自国の利害に向き合うことは国際政治の中では不可能です。価値観を同じくする国との同盟がいつの時代においても必要です。戦前において米国は、依然として建国以来の理念を有した “新世界” であり、日本がヨーロッパ列強の帝国主義的旧手法を踏襲しなければ、価値観を共有し提携しうる相手国でありました。その機会を失なう政策を選択した日露戦争直後の指導層の責任は大であると言えます。

自国の安全保障を自国単独の武力で成し遂げようとするのは、桁外れの覚悟が必要です。繰り返して言いますが、日本のような中規模の国では不可能なのです。日英同盟と現在の日米安保について言及するならば、現在の日米安保のほうが かっての日英同盟よりもはるかに相互互恵の関係になっています。現在の日本は世界の軍事費の40%を占める米国の抑止力を 基地の提供および駐留経費のコストを負担することによって得ている。“自らの国は自らの手で守る” という論は、よしんば現在の日本がその国家予算の50%を軍事費に投入しても、軍事的抑止力は日米安保による抑止力よりはるかに低いものでしかないのです。価値観の異なる東北アジアの国々からの脅威にたいして、価値観を同じくする大国が太平洋で隔てられているとはいえ隣国として存在し、その抑止力に頼ることができることは地政学的に僥倖であったと思うべきです。

日英同盟は日露戦争の終結でもって英国にとっての存続意義はなくなってしまいました。ワシントン会議で日英同盟が廃棄になるとき、その代わりに日米同盟を志向する視座を持っていたならば、その後の歴史は大きく変わっていたでしょう。指導者に同盟の意義についての認識が浅かったと思わざるをえないのです。

一つ目のテーマについて筆者が到達した結論を要約すると、明治初期、日本は旧体制の東北アジアの国の事象に深入りすべきではなかった。次に日露戦争後、日本は価値観を共有しえる国(それは米国であったと筆者は思う)との提携を進めるべきであった。昭和の悲劇は、明治期の政策選択の誤りを矯正できなかったことによる結末なのです。 

二つ目のテーマ、日本は今後どう未来に向かい合っていくべきか。この問いへのヒントは、今年既に、昭和20年を折り返し点として、明治維新から昭和20年までの長さと、昭和20年以降の長さがともに77年となり等しくなったことです。即ち、我々が採るべき視座は、この二つの77年のあとの次の77年をどう設計すべきであるかという視座です。

今、本稿全体を振り返ってみると、日本人の満蒙への関心は3つのタイプに分類できることに気づきました。一つは満蒙を占有せんがための政治的・軍事的野心です。二つ目は中国革命にまで参加せんとする大アジア主義的発想で、そして三つ目はモンゴルの草原や満天の星に象徴される大陸の自然や文化への憧憬です。筆者の当初の問題意識は一つ目の関心に属するものでしたが、今、筆者なりの結論を得ることができ、また漠然と持っていた三つ目の関心についても、今、多くのことを得る事ができて、本作業を遂行したことに満足を覚えています。

戦前の77年間、数限りない多くの日本人が満蒙に関わってきたなかで、本稿は、現在の日本人の間でほとんど知られていない幾人かの人物を紹介しました。その中で、花田仲之助、朝河貫一、水野広徳、鳥居龍蔵といった人達は、その生き様において筆者の心を強く掴んだ人達です。こうした高潔で度量のある人達が、満蒙に関わり明治以降の歴史を刻んできたことを日本人は忘れるべきでありません。

本稿を構想している途中、筆者は男児の初孫を得ました。その直後、筆者は家内とその友人家族を伴い京都鴨川西岸にある頼山陽の旧居を訪ねました。以下は筆者がその時に創った詩です。書き加えるべきものは山ほど残っていますが、本稿はこの詩を紹介して一旦終了することと致します。

京洛游賦

頼山陽旧居

藹藹(アイアイ)たる東山(トウザン)
千古の青史にその名を列す
一風(イップウ)に驚き窓下(ソウカ)をみれば
水は清し鴨の流れ

訪なふこと再四
洛陽の春は既に遅く
食膳に見ゆ
若鮎のすがた

年々歳々人は移れど
万胸に残る京洛のおもひ
我れ新生の童子を得たれば
何ぞ伝へん膝錐の志(シッスイノシ)

己丑平成弐十壱年仲夏
訪後洛陽山紫水明処