満蒙への道(27)ー辛亥革命(2)ー

夏草や乾隆康熙の夢の跡  游々子

”滅満興漢” のスローガンを掲げ、共和制を目指した孫文たちの中国革命は、蒋介石に権力移譲され、順調に国民党による中華民国が成立したものと思いきや、現実は差にあらずで、袁世凱という人物が、前に大きく立ちはだかりました。

この写真は、1916年、彼が皇帝に即位しようとしたときのものです。1911年10月に武昌蜂起がおこり、4か月後に清朝が倒れ、袁世凱が権力を握り、5年半後に急死するまでの期間は、革命が頓挫し、将に袁世凱時代と呼んでよいものでした。

近代中国において、西欧からストロング・マンと称された人物が二人います。一人は李鴻章で、もう一人がこの袁世凱です。学業においては李鴻章は科挙試験をトップで合格したのに対して、袁世凱は2回受験していずれも不合格で、天と地ほどの開きがあったのですが、不思議とこの二人はウマが合い、李は袁を引き立てていきます。日露戦争の後には、かって李鴻章がついていたのと同じ役職、総理兼軍事大臣の地位、すなわち清朝において、皇族をのぞいて最高の地位につくまでになっていたのです。

辛亥革命が起こったとき、清朝を代表して革命側と交渉したのが袁世凱で、彼は裏で革命側と手を結び、宣統帝を退位させるのと引き換えに、新しくできる共和制の大総統に自らがつくことを、孫文たちに認めさせたのです。大正2年10月7日の東京朝日新聞は、ー怪傑・袁世凱、支那空前の傑物、居ながらにして大統領ーという記事を載せています。

専制政治を復活させた袁世凱に対して、孫文たち革命派は、1年後の1913年に、第二革命と後年呼ばれるようになった反乱の狼煙をあげています。それは僅か2か月で鎮圧され、孫文たちは再び日本に亡命してくることになります。そうした孫文たちに、またもや日本人が手を差し伸べることになります。今度の場合は軍人で、日本の士官学校に留学していた清国の軍人とともに、打倒袁世凱の軍事活動を起こしていきます。次稿より、その詳細を述べることに致します。