満蒙への道(18)-満蒙奥地探検(6) 鳥居龍蔵(2)ー

奉天と同じ緯度なり夜半の月  游々子

喀喇沁(カラチン)は、北京の北北東300km、奉天の西400km に位置し、当時グンサンノルブというモンゴル族の王族(チンギスハーンの功臣の末裔)が、王府を構えていた処でした。グンサンノルブは明治36年、大阪で催された内国勧業博覧会に、日本政府から招待を受けて来日し、教育の重要性を認識して帰国し、王府の中に、女子教育のための学校を設立しました。きみ子が招聘されたのは、その学校でした。

きみ子の前任は、川原操子という人で、日露戦争を挟んで2年間務めています。川原は、東清鉄道の鉄橋爆破に向かう民間人を、その出発の前に王府内に匿ったりしています。川原が日本人教師として推挙された背景は、川島浪速(川島芳子の養父)という人が、川原と同じ信州松本藩出身で、しかも喀喇沁王妃の兄である清朝粛親王の顧問となっていた縁によるものです。

きみ子が喀喇沁に赴任したのは、明治39年3月、彼女が25歳のときでした。夫の龍蔵も男子教育の委託を受け、1か月後には喀喇沁に赴くことになりました。この1か月の間に、きみ子夫人は次のような歌を喀喇沁で詠んでいます。

この月に君が思ひも籠るらん 喀喇沁の夜半東風ぞそよ吹く

鳥居のフィールドワークの特徴は、家族ぐるみでそれが行われたことでした。喀喇沁での夫人と二人での生活はその端緒となり、二人は習い始めたばかりの馬に乗り、王府ふきんの遺跡を巡りました。喀喇沁の近くには、10~12世紀にかけて繁栄した遼帝国の中京遺跡があり、この中京遺跡の探査こそ、昭和8年の第4回目の東部蒙古フィールドワークへと続く彼のライフワークとなりました。

鳥居龍蔵
鳥居きみ子
カラチンの位置

添付3点 中薗英助著「鳥居龍蔵伝-アジアを走破した人類学者-」より