満蒙への道(19)-満蒙奥地探検(7) 鳥居龍蔵(3)ー

紫陽花やがいな気性の阿波女  游々子

鳥居の文化人類学者としての信念は、日本のことを判ろうとしたら、日本国内の事だけを調べるのでは不十分で、遠く大陸や島嶼諸島にまで調査の範囲を広げるべき、というものでした。彼は日本の平安時代中期に花開いた国風文化というものは、遣唐使を廃止したことにより自然に発生したものではなく、唐が滅亡した後の五代十国など、中国の北方からの影響があったはずで、とりわけ、日本で貴族文化の頂点となった藤原兼家、道長、頼道の三代の時代と、遼の最盛期であった三人の皇帝(五代、六代、七代、969年~1055年)の時代が重なっていることに着目し、なんらかの交流の痕跡が見つかるはず、との仮説を立てていました。

その仮説を実証するために行ったのが、昭和8年の第4回となる東部蒙古のフィールドワークでした。この時の調査には、夫人だけでなく、二人の子供(次女の緑子さん、次男の龍次郎さん)も同行しています。このときのことを、緑子さん(当時23歳)が、「父の研究を助けて満蒙へー陵墓壁画模写の十五日間ー」という文章の中で、次のように綴っています。

”私の役目は、この得難い遼代の肉筆の景色や人物、その他花鳥などを模写することでした。陵墓の入口は凍った土で埋まって、一尺余り開いている口から這い込まなければならない、そしてまるで幽界の如く静まりかえった深い闇のなかに、大小の円形の室がアーチ形の廊下で続けられ、目的の四季の山水を描いた壁画は、中央の大円室の四方の壁に残っています。蝋燭をかざして、その一つ一つを父が熱心に説明されるのを聴きながら、想像にあまる雄大さに打たれて、私はただ言葉もなく壁画に見入ったのでした。天井には、濃い朱・紅・緑青などで描かれた装飾紋様を見るだけでも、昔の人のすぐれた技術が、今からは考え及ばない位、精密な心組みであることに驚かされるのみです。”

”これは彼の有名な墨絵として伝わる南宋画の前の時代のもので、世界の内に残された唯一の北宋画の肉筆であろうと父は話してくれました。北宋の画題や画人の名は、今に文献に残っていますが、絵そのものを見ることは難しい。時代は我国の藤原時代で、それに画風も当時の大和絵に似通う点もあるように思われるので、非常な興味を持って私は、一筆ごとに注意深く、模写に熱中いたしました。”

陵墓の壁画は、鳥居が著した「遼代の壁画について」という文のなかに、山水画、人物画、鳳鸞図の写真が掲載されています。添付したのはその内の鳳鸞図です。鳥居に指摘されるまでもなく、一見してこれは平等院鳳凰堂の鳳凰そのものです。

遼は西は西域と接し、東は沿海州まで、広大な地域を支配し、域内の交流も盛んでした。1985年には内モンゴル自治区の村の貯水槽の建設工事で、遼代の最盛期の皇族の黄金のマスクが発見されています。ツタンカーメンの黄金マスクを思わせるようなもので、これほどの黄金を使用した遼は、強力な王権と豊かな財力を持った国際国家であったのではないかと思います。私の想像ですが、遼から日本への文化流入ルートについて、鳥居は、渤海使の朝鮮半島の東海岸に沿ってのルートを、渤海を滅ぼした遼が継承したのではないかという仮説を持っていたのでは推測しています。

鳥居はその後、北京の燕京大学の教授となり、昭和26年に帰国しています。朝日新聞は、この帰国を、”優遇されたが老齢で” と記事にしています。東京の自宅は戦争で焼失していたため、吉田首相は、建設大臣の公舎を仮住まいとして提供しました。鳥居は昭和28年82歳で死去、6年後にはきみ子夫人が78歳で死亡。今二人は、ふるさと鳴門に作られた鳥居記念館の敷地のドルメンに埋葬されています。

陵墓壁画に描かれた鳳鸞画
鳥居龍蔵全集第9巻より
鳥居夫妻の遺骨が埋葬されている鳥居記念館のドルメン
鳥居龍蔵全集第12巻より