満蒙への道(17)-満蒙奥地探検(5) 鳥居龍蔵(1)ー

信州のコロボックルや天高し  游々子

鳥居龍蔵は明治3年、徳島で生まれ、昭和28年、82歳で死亡した学者です。専門分野は、考古学、歴史学、文化人類学におよび、小学校中退という学歴ながら、大学教授にまでなり、海外で行ったフィールドワークの回数と走破距離においては、他に追随を許さないものとなっています。

鳥居は、高等小学校・中学校の課程を独学自習し、16歳のときに東京人類学会に入会し、幹事を務める東京帝国大学理科大学教授の坪井正五郎の知遇を得るようになりました。坪井は、俳句的生活(81)で紹介した、茅ヶ崎に別荘を構えていた自然人類学の先生です。鳥居は、その坪井の引きで、彼が主査を務める人類学教室での標本整理係という職を得て、研究者としてのスタートを切りました。鳥居が23歳のときです。

坪井は鳥居にとって、恩師にあたる先生ですが、コロボックル学説を巡っては、恩師と対立する意見を持ち、堂々と自説を述べています。コロボックルとはアイヌに伝わる小人伝説で、アイヌの前に先住民として北海道や千島に居住していたとするものでした。坪井はこれを信じ、鳥居は否定するという立場にたち、最終的には否定論が主流となったのですが、坪井の偉いところは、弟子のとった行動に何ら感情的にならず、自由な学問追及を許容したことでした。坪井が出張中のペテルブルグで急死したのは、大正2年のことで、鳥居が43歳のときでした。坪井の居なくなった東京帝国大学は、鳥居にとって居心地の良い処ではなく、11年後には、助教授の職を辞して退官しています。

満蒙での鳥居のフィールドワークは、満州で8回、内蒙古で4回に及んでいます。鳥居が特に眼を付けたのが、東部内蒙古でした。その訳は、外蒙古や西部内蒙古は、ロシア人やヨーロッパ人により、既に探査されていたのに対して、東蒙古は全くの未探査の地であったことと、もう一つの理由として、この地は古来、モンゴル人と東胡人が入れ替わり混在した地域であり、人類学的・考古学的に興味のつきないところであったからです。

鳥居が蒙古に関心を掻き立てられる契機となったのは、明治38年9月から11月にかけての、第二回目の満州調査で東蒙古にも足を運んだことにあります。そして図らずも絶好の機会が、わずか半年後に訪れたのです。それは鳥居夫人のきみ子女史が、喀喇沁(カラチン)王府での日本教師として招聘されたことでした。