俳句的生活(190)ー遣唐使派遣拒否事件ー

聖徳太子の時代に、小野妹子という人が、初代遣隋使として、当時建国されたばかりの隋に渡ったことは、小学校の教科書にも載っているほど、夙に有名ですが、その子孫に、小野篁(たかむら)という人が居て、遣唐使の副使となっていたにも関わらず、正使の藤原氏との間で、いざかいが起こり、派遣を辞退したことは、あまり知られていません。篁の孫には、書の三跡の一人である道風という人がいて、”柳と小野道風” として、花札になっています(添付1)。また、伝説的ですが、小野小町も篁の孫と言われています。

篁は妹子より約230年経ったあとの子孫です。皮肉なことに、篁が拒否した遣唐使が最後の使節となりました。篁は、派遣を拒否しただけでなく、遣唐使そのものを不要と批判したため、天皇の怒りをかい、隠岐に流されることになりました。

篁の歌は、

わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよあまの釣舟

というものが、百人一首に取り上げられています。この歌は、古今集からの採用で、その詞書には、「隠岐の国に流されるときに 船に乗り出で立つとて 京なる人のもとへ遣わしける 小野たかむらの朝臣」と記されています。

篁は隠岐で、阿古那(あこな)という村娘と恋に落ち、阿古那が歯痛で苦しんでいたので、地蔵を与えたところ、歯痛が収まったので、あこな地蔵ー>あごなし地蔵は、歯痛に効くと信じられて、全国に広まっていきました。

茅ヶ崎には、浜之郷の龍前院に一体が置かれています。光背には、「隠岐国顎無地蔵尊者口中一切除病昇」と彫られています(添付2)。この中に、”顎無” という二字があります(添付3)が、”あごなし”と読むものです。側面には願主として、”熊沢氏沢女” という名があり(添付4)、天保十四年(1843年)のものとなっています。この女性は、歯痛快癒を祈願して、この地蔵を造らせたものと思われます。

篁は、”野狂” と呼ばれた人物で、今昔物語には、夜な夜な地獄に通い、閻魔大王の執務を補佐していたという話が書かれています。冥界への入口は、六道珍皇寺の裏の井戸、冥界からの出口は、嵯峨薬師寺の境内の井戸(生の六道)と言われています。

阿古那は篁の子を身ごもるのですが、篁は出産の前に、赦免されて京都に戻ってしまいました。阿古那を連れて京に戻っていれば、また違った話が出来ていたと思うのですが、当時の男は身勝手なものです。

現世より長き極楽水を打つ

添付1
添付2
添付3
添付4