俳句的生活(103)-茶屋町の変遷ー

茶屋町=南湖 は、茅ヶ崎駅が明治31年に開業してより、立場茶屋は徐々に姿を消していきましたが、関東大震災が起きるまでは、茅ヶ崎の中心であることに変わりはありませんでした。添付した地図は、震災前の大正期のものです。明治8年にできた茅ヶ崎郵便局は茶屋町に置かれ、大正期には茶屋町郵便局という名前となり、現在に続いています。因みに初代の郵便局長には、本陣松屋の佐藤清左衛門さんが任命されました。また、明治15年には、江陽銀行という茅ヶ崎最初の銀行も、茶屋町に置かれました。この銀行は合併を経て、今の横浜銀行に至っているものです。

100年前のこの地図に、今も名前を見つけられるのは、江戸屋の重田さん、薬屋の臼田さん、伊藤屋の伊藤さん、です。まだ他にもにもいらっしゃることと思いますが、まだ調べは出来ていません。おそらく幾軒かは、震災を期に、停車場通り(エメロード)に移ったのではないかと、推測しています。

この地図から読み取れるのは、東海道に沿った家並以外は、畑と水田になっていることです。また、千の川が家並にぴったりとくっ付いています。現在は、川筋が家並からは幾分か離されて、コンクリートの護岸となっています。また、道についても、金剛院の脇を北上する南湖通りは、東海道でT字路となり、更に北への道はできていません。

茶屋町の繁栄は、松尾川の水運によるところが多く、震災前までは、鳥井戸橋近くまで舟が出入りすることが出来ていました。土地の隆起で、松尾川が細ってしまい、震災後は急激に、茅ヶ崎の中心地は、駅前に移動していったのです。

茶屋町には、ところどころに空き地が発生しています。市が買い取って、立場茶屋を復元することは出来ないものでしょうか。柳島に建設中の道の駅より、遥かに文化的価値があると思います。

一里塚を越えて一服秋の茶屋

茶屋町の地図
震災前の茶屋町 「南湖郷土誌」より