俳句的生活(104)-江戸の劇作術ー

NHKのラジオに、”おしゃべりな古典教室”という番組があります。これは、木ノ下歌舞伎を主宰する木ノ下祐一さんと、女優の小芝風花さんが織りなす軽妙なトーク番組ですが、直近のものとして、”江戸の劇作術”というテーマのものがありました。江戸時代の劇というのは、劇の世界というのが先ずあって、そこに作者が趣向を入れ込むというものだそうです。そう言われれば、仮名手本忠臣蔵をとってみても、忠臣蔵という世界の中に、高師直のような人物を入れ込むという趣向がされたものであることに、気付きました。

同じことが戯作についても言えるのではないかと思い、萩園にルーツを持つ仮名垣魯文の作品を調べたところ、「西洋道中膝栗毛」というのがありました。これは弥二さん喜多さんの孫が、ロンドンで繰り広げる珍道中で、将に木ノ下さんが解説したとおりのものでした。

萩園の三島神社に、魯文の石碑があります。これは、和田篤太郎の弟の節三郎が江戸の魯文宅を訪問したとき、魯文が”うれしさのあまり”に詠んだという和歌を、後年萩園の人達が刻んだものです。魯文は萩園の、野口一族の出身で、父親までが住んでいた場所は、同じ野口一族で、萩園郷土史の泰斗である野口薫さんが、萩園通り(八王子街道)に沿って、三島神社を北に200m上がった東側であったと、特定しています。野口薫さんのお宅は、十二天神社の東側にあって、バラ園を経営されています。現在は孫娘さんが切り盛りされています。伴侶が喜寿を迎えるとか、夫婦の金婚式の時などに、77本とか50本のバラを予約すると、市販のものに比べてはるかに立派な花束を用意してくれます。該当される方は利用してみては如何でしょうか。

魯文のことを綴るにあたり、彼の代表作である「安愚楽鍋」に眼を通してみました。あらすじの無い話を、注釈を見ながらでないと理解できないというような文章は、長く過ごした企業では全く忌避されていた代物ですが、百人一首の和歌にしても、二重に懸けている表現を理解しないと、意味が分からないのと同じことで、江戸の戯作の真骨頂をいっていると思いました。

江戸から明治へと時代がうつり、魯文のような物書きは、需要層を失い、経済的に困窮します。それを救うのが、明治政府の皇国思想に国民を啓蒙する活動で、そこに魯文たちも召集されていったのです。彼は神奈川県庁の御雇となり、更に新聞に記事を書くというアルバイトをすることで、現在価値で月収100万円というところまで回復します。しかしそれも、明治20年を過ぎるころから、文壇が言文一致のように近代化するにつれ、再度困窮していきます。南郷力丸のことを黙阿弥に教えたのは、魯文であった、という説もあります。とに角、66歳の波乱に満ちた生涯でした。

”江戸の劇作術”は、現在らじるらじるの聴き逃しで聞くことができます。15分の番組が4回にわたって掲載されています。

喜多八が北八となる明治かな

魯文の石碑
三島神社の魯文の碑