鬼を狩る子孫 第二部・過去編 第二章 洛中の渦(3)

第3回 川を握る者

 洛外の焼け跡を離れ、朔太郎は西へ向かった。

 嵯峨は、都の中心とは空気が違う。
 山が近く、川が近い。風が乾いている。

 大堰川――保津川の水がゆるやかに広がるあたりには、舟が幾艘も繋がれていた。俵が積まれ、材木が並び、荷を担ぐ男たちが行き交う。

 ここは焼けなかった。

 応仁の乱で洛中は焦げたが、川は焦げなかった。
 水は、変わらず下っている。

 渡月橋の袂、問屋の蔵が並ぶ一角で、若い娘が立っていた。

「本日はご挨拶に参りました」

 声は整っている。

 向かいにいるのは、嵯峨筋を束ねる問屋の主人だ。年配で、目は細く、指は太い。銭を扱い慣れた手である。

創作小説の挿絵

「保津の舟は順調か」

「はい。今月も遅れはございません」

「近江筋は安いと聞くが」

 試すような口ぶり。

 娘はわずかに間を置いた。

「安さだけでお選びになるのであれば、止めはいたしません」

 穏やかな声だった。

「ですが、川は気まぐれです。水嵩が増せば、舟を退く者もおります。保津の舟頭は退きません。御店の荷は、必ずお届けいたします」

 舟板がきしむ。

 川風が荷札を揺らす。

 問屋はしばらく黙った。

 やがて、短くうなずく。

「次も任せる」

「ありがとうございます」

 娘は深く頭を下げた。

 値を競ったのではない。
 安さを誇ったのでもない。

 川の流れを背にして、立っている。

 朔太郎は少し離れたところから、その様子を見ていた。

 蔵の奥で、低い声が交わされている。

「丹波筋はどうだ」

「城代様には、すでに話を通してある」

「表は救済、裏は回収か」

「米はありがたがられる」

 小さな笑い声。

 朔太郎は、その名を聞いた。

 第一章で耳にした名。
 城代家老と並んで動く、あの商人。

 寄進をし、米を貸し、顔を売る。

 貸した米は、やがて別の形で戻る。

 戻らぬとき、何かが動く。

 娘が帳面を閉じる。

 筆の音が乾く。

 ふと顔を上げる。

 視線が、朔太郎と合う。

 一瞬だけ。

 すぐに逸れる。

 川面が光る。

 舟が離れ、俵が揺れる。

 焼け跡で、鬼と呼ばれていた男のことを、朔太郎は思い出した。

 ここでは、誰も鬼とは呼ばれない。

 橋の欄干に手を置く。

 木はひんやりとしている。

 蔵の戸が閉まる音がした。

 朔太郎は、しばらく川を見ていた。