鬼を狩る子孫 第二部・過去編 第一話 丹波の若者(6)
第6回 夢だと分かる夢
その夜、朔太郎は山の中腹に身を置いていた。
秋月城の灯が、遠く盆地の底に揺れている。城は低く、頼りない。だが、それでも人の営みの中心であることに違いはない。
朔太郎は、あえて城下へ戻らなかった。
己がどこに属するのか、まだ定まらぬまま、灯のある場所へ帰る気にはなれなかった。
山は静かだった。
川霧が谷から立ちのぼる。
田を包み、木々の間を這い上がり、やがて山の裾へと届く。
丹波の夜は、湿り気を帯びる。
横になっても、眠りは浅い。
目を閉じると、白が広がった。
気づけば、立っている。
足元も、空も、白い。
音がない。
川の流れも、虫の声も消えている。
夢だ、と分かった。
だが、覚めようとは思わなかった。
霧が、静かに割れた。
そこに立っていたのは、鎧の武者ではなかった。
山を駆けるための軽装。
濃い色の衣。
長い髪は高く結われず、肩へ流れている。
体躯は屈強で、無駄がない。
若く見える。
だが、その立ち姿には、一分の迷いもなかった。
霧の中で、その男だけが、はっきりと輪郭を持っている。

朔太郎は、自然に刀へ手を伸ばした。
抜くためではない。
己を確かめるために。
男は動かない。
霧が揺れても、その姿は揺らがない。
「……何者だ」
声はかすれなかった。
男は、まっすぐに朔太郎を見た。
「霧村朔太郎」
名を呼ばれる。
「霧の小次郎」
その名は、山風のように短く落ちた。
「俺も霧村の血だ」
小次郎は言った。
「幼き頃、鬼にさらわれた」
朔太郎の息が止まる。
「山の奥、闇の中で育てられた」
霧が、わずかに濃くなる。
「鬼の理を見た」
声は低く澄んでいる。
「鬼は化け物ではない」
「人の中に巣くう」
「欲、怨み、飢え」
「それを喰ろうて、鬼は形を得る」
小次郎の目が、鋭く光る。
「俺は鬼を斬った」
その一言は重い。
「だが、絶やすことは出来なかった」
霧が、静かに揺れる。
「鬼は死なぬ」
「形を変え、時を待つ」
「今、また息を吹き返している」
「丹波だけではない」
「都にも、城にも、里にも」
朔太郎は拳を握った。
「なぜ俺だ」
問いは低く出た。
小次郎は一歩、踏み出す。
霧が足元で裂ける。
「霧村の血は、鬼の理を知る」
「鬼に触れ、鬼に抗える」
小次郎の声は揺らがない。
「それは誉れではない」
「逃げられぬ縁だ」
その言葉は、静かでありながら重かった。
「お前は弱い」
はっきりと言う。
「腕ではない」
「覚悟が足りぬ」
朔太郎は歯を食いしばる。
「鍛えよ」
「身を」
「心を」
「鬼に呑まれぬだけの強さを」
小次郎の目が、真っ直ぐに射抜く。
「霧村の血は散っている」
「山を越え、谷を越え」
「同じ血を引く者を探せ」
「一人では、鬼は狩れぬ」
霧が渦を巻く。
小次郎の姿が、白に溶け始める。
「俺の意志を継げ」
「霧村の名を継げ」
「鬼を狩れ」
その声だけが、最後まで残った。
「立て、朔太郎」
目を開けると、夜はまだ明けきっていなかった。
川の音が戻っている。
虫の声もある。
夢だ。
だが、逃げ場のない夢だった。
胸の奥に、火のようなものが残っている。
朔太郎は、ゆっくりと立ち上がった。
霧はまだ谷を満たしている。
その白の向こうに、道がある。
初めて、そう思えた。

