鬼を狩る子孫 第二部・過去編 第一話 丹波の若侍(2)
第2回 村はずれの噂
霧村朔太郎が丹波の集落を離れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
川沿いの道を選び、歩き出す。行き先を決めていたわけではない。ただ、留まる理由がなかった。
山が近づくにつれ、道は細くなった。人の足跡はあるが、往来は少ない。空気に、土と木に混じって、獣の匂いが濃くなる。
道の脇に、小さな堂があった。
屋根は傾き、壁板は剥がれている。祀られていたものは分からない。供え物もなく、香の跡もない。ただ、柱の低い位置に、刃物で刻んだような傷が残っていた。
朔太郎は、足を止めた。
獣やないな。
人の手や。
そう思ったとき、背後から声がかかった。
「そこ、寄らん方がええで」
振り向くと、薪を背負った百姓が立っていた。年は四十を越えたあたりだろう。武士を見る目だが、腰は低い。

「何かあるのか」
「さあ……」
百姓は言葉を濁し、堂のほうへ顎をしゃくる。
「夜になると、ようないんや」
「獣か」
「獣やったら、まだ話は早いんやけどなあ」
それ以上は言わず、百姓は薪を担ぎ直して山のほうへ去っていった。
噂は、あれで十分やった。
夕刻、小さな村に入った。
家々は寄り集まり、畑はあるが人影は少ない。戸口に立つ女たちは、朔太郎を見ると、言葉少なに家へ引っ込んでいく。
井戸端で水を汲んでいた若い女が、ちらりとこちらを見た。
「旅の人やろ」
問いというより、確かめる口調だった。
「今宵は……」
女は言いかけて、口を閉じた。
「早よ、山から離れなはれ」
理由は言わなかった。
それで、十分だった。
村の端で、年寄りが一人、腰を下ろしていた。
「泊まらん方がええ夜もある」
朔太郎が立ち止まると、老人はぽつりと言った。
「夜になると、山が騒がしゅうなる」
「何が起きる」
「起きるから、困るんや」
老人はそれ以上、口を開かなかった。
日が沈むにつれ、村は急に静かになった。
戸は閉められ、灯りは抑えられる。人の気配が引いていく。朔太郎は、村はずれの空き小屋に腰を下ろした。
噂は、確かにここにある。
だが、正体は、まだ姿を見せない。
それでよかった。
この夜は、何も起きなかった。
だが、何も起きなかったからこそ、噂は噂のまま、重さを増していた。

