鬼を狩る子孫 第二部・過去編 第一話 丹波の若侍(4)

第4回 夜霧

 その夜、朔太郎は村を離れた。

 騒ぎの余韻が、背中に残っていた。
 誰かに追われたわけでもない。
 だが、あの場に居続ける理由が、見当たらなかった。

 川沿いの道を、山へ向かって歩く。

 日はとうに落ちている。
 空に月はない。雲が低く垂れ込めている。

 山の輪郭が、黒く溶けていた。


 川面から、白いものが立ち上り始めた。

 最初は、薄い煙のようだった。
 やがて、それはゆっくりと広がり、足元を包む。

 霧だ。

 川霧は珍しくない。
 だが、この夜の霧は、どこか粘りつくようだった。

 音が吸われる。

 川の流れが、遠くなった気がする。
 足音も、自分の呼吸も、妙に重くなる。

 朔太郎は立ち止まり、辺りを見渡した。

 何もいない。
 だが、何も見えない。


 道から少し外れた場所に、大きな石があった。

 朔太郎は、その石にもたれ、腰を下ろした。
 野宿には慣れている。焚き火は起こさない。光は、今夜はいらぬ。

 刀を横に置き、目を閉じる。

 だが、眠りは浅かった。


 霧は、さらに濃くなっていった。

 足元から膝へ。
 やがて腰のあたりまで、白い気が満ちる。

 山の方から、風が一筋、下りてきた。

創作小説の挿絵

 そのときだった。

 背後で、何かが動いた気がした。

 枝の擦れる音でもない。
 獣の足音でもない。

 もっと、曖昧な気配。

 朔太郎は、目を開いた。

 刀に手をかける。

 「……」

 呼びかけるでもなく、ただ声を落とす。

 返事はない。

 霧が、揺れた。

 そこに、形があるようにも見える。
 だが、目を凝らすと、ただの白だ。


 自分の鼓動が、やけに大きい。

 斬る相手がいるなら、分かる。
 姿が見えぬものは、斬れない。

 それでも、視線は逸らせなかった。

 霧の向こうに、立っている。

 そう思った瞬間が、確かにあった。

 だが、次の瞬間には、何もない。


 やがて、霧はゆるやかに薄れていった。

 川の音が戻る。
 虫の声も、聞こえ始める。

 朔太郎は、しばらく刀に手を置いたまま、動かなかった。

 何も起きていない。

 だが、何も起きなかったとは、言い切れない。


 空がわずかに白み始める頃、霧は消えた。

 川は、昨夜と変わらぬ流れを見せている。

 朔太郎は、立ち上がった。

 夢ではない。

 だが、現実とも言い難い。

 それでも、胸の奥で、何かが確かに触れた感覚だけは、消えなかった。

 誰かが、こちらを見ていた。

 そう思うには、十分だった。