鬼を狩る子孫 第二部・過去編 第三章 南都の影(12)
銭の行方
朝。
奈良の町は、すでに動き始めていた。
東大寺へと続く道には、人が絶えない。
荷を担ぐ者、帳面を抱える者、銭を数える者。
それぞれの思惑を抱えながら、ひとつの流れとなって進んでいる。
その流れの端に、三人は立っていた。
玄之助は道の先を見据え、棒を肩にかけたまま動かない。
その立ち姿だけで、周囲の空気がわずかに張りつめる。
権太は腕を組み、にやりと笑いながら人の動きを眺めていた。
何かあればすぐ動ける、そんな余裕がある。
朔太郎は、その二人の間に立ち、町の様子を見ていた。
人の流れ。
銭の流れ。
そして、その裏にある見えない力の動き。
「……来るで」
玄之助が短く言った。
やがて、人の群れの中から一人の男が現れた。
弥七だった。
その後ろに、もう一人。
僧の姿をしているが、ただの僧ではない。
衣は新しく、歩き方に迷いがない。
周囲の人々が自然と道を開けている。
東大寺とは別の力――
朔太郎はすぐにそう感じた。
玄之助が一歩、前に出る。
道の真ん中に立つと、人の流れが静かに避けた。
まるでそこに見えない壁ができたようだった。
弥七が足を止める。
後ろの僧も、同じように立ち止まった。
しばし、何も起きない。
ただ、人の流れだけが両脇を抜けていく。
やがて玄之助が口を開いた。
「銭は、どこへ流れとる」
静かな声だったが、はっきりとした問いだった。
――抜かれた銭の行き先を問うている。
僧はすぐには答えなかった。
三人を順に見てから、ゆっくりと言った。
「寺へ戻る」
権太がすぐに口を挟む。
「どっちの寺や」
東大寺か、興福寺か。
僧は答えない。
その沈黙が、そのまま答えだった。
朔太郎は一歩進み、言った。
「帳面は見た」
「銭の数が合わん」
「途中で抜かれとる」
僧は朔太郎を見た。
その目は鋭いが、怒りではない。
むしろ、値踏みするような視線だった。
「若いが、よく見ている」
そう言ってから、静かに続ける。
「銭は流れるものだ」
「寺に集まり、町を通り、また動く」
「それを止めれば、流れは淀む」
玄之助が、わずかに口の端を上げた。
「せやから抜いとる、いうことか」
僧は首を振る。
「盗みではない」
「流れを崩さぬためだ」
その言葉に、権太が声を上げて笑った。
「ええ言い方やな」
「盗みをそう言い換えるか」
玄之助は笑わない。
ただ、じっと僧を見ている。
「流れを保つ言うてもな」
静かに言う。
「偏りすぎたら、流れやなくなる」
棒の先を、わずかに地に向ける。
「溜まりになる」
権太が続ける。
「溜まったら腐るで」
僧は、しばらく黙っていた。
周囲では何事もないように銭が動いている。
だが、この場だけは別だった。
やがて僧は言った。
「流れが止まらぬよう、抜いている」
――銭の流れを止めない範囲で抜いている。
そのときだった。
弥七が、突然動いた。
短刀を抜き、玄之助に向かって踏み込む。
だが――
遅い。
玄之助の棒がすでに動いていた。
乾いた音が響く。
短刀は弾かれ、弥七の体が崩れる。
権太がすぐに踏み込む。
鎖が低く走り、弥七の足を払う。
弥七は地面に叩きつけられた。
周囲の人々がどよめき、すぐに距離を取る。
誰も関わろうとはしない。
そのときだった。
玄之助が、ふと朔太郎の腕に目をやった。
袖の下から、わずかに覗いているものがある。
勾玉の形をした痣。
朔太郎も気づいた。
玄之助の二の腕にも、同じ痣がある。
さらに、そのすぐ下。
布の合わせ目から、かすかに見える印。
白鳥。
羽を広げたような、簡素な印だった。
玄之助は何も言わない。
ただ、ほんのわずかに頷いた。
権太がそれに気づき、笑う。
「……やっぱりか」

それだけだった。
だが三人の間には、はっきりとしたものが通った。
言葉にしなくても分かる繋がりだった。
僧は、その様子を静かに見ていた。
玄之助が弥七を見下ろし、言う。
「末やな」
――下っ端だ、という意味だった。
僧は頷く。
「その通りだ」
権太が言う。
「なら、上は誰や」
僧は、わずかに笑った。
「ここにいる」
自分を指していた。
朔太郎は考えた。
ここで斬ればどうなるか。
寺同士の争いになる。
銭の流れが止まる。
名が傷つく。
どれも、望まぬことだ。
玄之助が静かに言った。
「斬らん」
はっきりした声だった。
「流れを戻すだけや」
権太が笑う。
「らしいな」
玄之助は続ける。
「銭は流れる」
「せやけど、流れは保たなあかん」
僧はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり頷く。
「よい」
「今回は戻そう」
それだけ言った。
弥七は引きずられていく。
僧も振り返らずに去った。
人の流れが戻る。
銭が動く。
まるで何事もなかったかのように。
三人はその場を離れた。
坂を上る。
朝の光が奈良の屋根を照らしている。
「終わり、か」
権太が言う。
「終わっとらん」
玄之助が答える。
「戻しただけや」
朔太郎は振り返った。
寺。
町。
人。
銭。
そして、見えない流れ。
それは、鬼に似ていると思った。
姿は見えない。
だが、確かにある。
「……どこにでもおるな」
朔太郎が言う。
権太が笑う。
「せやろな」
玄之助は何も言わなかった。
ただ前を向いて歩いていた。
奈良を出る道は静かだった。
だがその先にも、
同じような流れが続いていることを、
三人はすでに知っていた。
第三章 完

