添削(57)-あすなろ会(13)令和6年3月ー

裾花さん

原句 ランニング背中に陽受く遅日かな

上句と下句を入れ替えて、陽を受けるのはランニングとした方が合っています。中句の ”背中” は文語では ”背(せな)” と表現されるので、それを使うのが良いでしょう。

参考例 遅き日や背(せな)に陽を受くランニング

原句 花守りも花見客の一人かな

薄墨桜
岐阜県根尾谷の薄墨桜

中句が6音になっています。「の」を入れて「花見の客の」とすれば7音になります。また上句の ”花守り” の ”り” は要りません。よって「花守も花見の客の一人かな」となります。花守も花が咲きほこってくると花見に出かけますが、一般客とは眼のつけどころが違うことを参考例にしてみました。

参考例 花守の眼は根の本と幹の皺へ

原句 初午や夕日に映える赤鳥居

映像がよく見える佳句ですが、風景を詠んだ句においては、どのような措辞にするかで句の出来具合が決まります。原句は中句で ”映える” としていますが、これは平凡な表現です。参考例では ”紛る” を使い、逆光の中の赤鳥居を表現してみました。

参考例 初午や夕日に紛(まぎ)る赤鳥居

蒼草さん

原句 一筋の帯と成りしや花筏

疎水の花筏
疎水の花筏

作者は別のところで「帯となり疎水しづもる花筏」という句を詠んでいますので、この句も京都の哲学の道沿いの疎水の花筏を詠んだものと思われます。そうした時、疎水の花筏を ”帯” と表現するのは季語を描写したことになり、拡がりを欠くことになります。従ってここでは、疎水に関することに字数を使うのが適切となります。

参考例 ここに来て溢る疎水や花筏 

原句 今年また大慈大悲の桜かな

桜に阿弥陀の慈悲を結び付けたユニークな句です。ただ、上句の ”今年また” では、弥陀の有難さがす~と抜けていく感じがしますので、”大慈悲” に繋がる言葉を見つけなければいけません。

参考例 慈悲半眼の弥陀に影なす桜かな

原句 玉砂利の広ごる御苑暮遅し

京都御苑での遅日に玉砂利を合わせた句です。原句は ”玉砂利の広ごる御苑” が説明的になっているので、御苑と玉砂利を離した方が良いでしょう。

参考例 遅き日の御苑や白き玉の砂利

遥香さん

原句 花守に応ふる古樹の蕾かな

花守の篤い世話にたいして、古樹が蕾で応えるという佳句です。問題個所は ”応ふる” という動詞で、これだと花守と古樹の関係が対等のものとなってきます。上句で ”に” が使われていますから、中句以下のことは、花守に向かってのことであることは読み取れますので、ここは ”応ふる” ときつい調子にするのではなく、単に ”膨らむ” とした方が、奥ゆかしく深い句となります。

参考例 花守に膨らむ古樹の蕾かな

原句 初午や辻の祠に手を合わす

稲荷講
稲荷講

この句の最初の問題点は、中句以下が文章になっていることです。これは語順を変えることで解消できます「手を合わす辻の祠や一の午」。しかし、これは俳句としての面白さは皆無です。その理由は ”祠で手を合わす” という行為が当たり前のことであるからです。ここは祠を些細なことであっても描写しなければなりません。

参考例 初午の祠に講の墨書かな

原句 七福を巡る遅日の空茜

七福は巡るものですから、動詞 ”巡る” は使わない方が良いです。また茜も空に現れるものですから、”空茜” という描写には無駄があります。ここでは、花崗岩の白い石で作られている七福神が茜色に染まっている、という光景を詠むものにした方が良いでしょう。

参考例 遅き日や茜色なる七福神 

怜さん

原句 初午や屋敷稲荷にあげ一枚

敷地内に小さな稲荷社を作っている家は、茅ケ崎でよく見かけます。大抵は昔からの農家で、豊穣祈願で作られたものと思われます。そうした屋敷稲荷に油揚げが一枚供えられていた、という句で、季題の風景描写として秀逸です。直しはありません。 

原句 卒業歌瓦礫の町の希(まれ)となり

希は希望の希で、「のぞみ」と読むのが多いですが、「まれ」とも読みます。乃木希典の希です。能登の地震で倒壊した町に流れた卒業歌を ”希” として聞いたという、発想の優れた秀逸句です。このままでも良いのですが、卒業歌を上句にもってくると、やや座りが悪いので、語順を変えて下句に置いてみます。

参考例 希(まれ)を呼ぶ瓦礫の町に卒業歌

原句 芦の角水面を出でて季(とき)を知る

この句は下五の ”季(とき)を知る” より、准南子の「桐一葉落ちて天下の秋を知る」を連想させます。本歌取りしたような句で「蘆の角出でて令和の春を知る」のようなものが考えられますが、時代がかり過ぎることになります。原句は中句の ”水面を出でて” が説明的表現になっていますので、別表現のものにしてみます。

蘆の角

参考例 蘆芽(あしかび)の見え初む夕に季(とき)を知る

茅ヶ崎には「あしかび」を俳号とする俳人かつ郷土史家の人が居ました。鶴田栄太郎という人で、その人のことを、こちらこちらのブログに書いていますので、ご覧になってください。

弘介さん

原句 桜守師弟はともに好好爺

原句では、師匠と弟子が対等に表現されていて、焦点の当たるのが師匠なのか弟子なのかが、明確になっていません。桜守が師匠であることをはっきりさせ、師匠に焦点が当たる詠み方にした方が良いでしょう。

参考例 弟子もまた好々爺なり桜守

原句 桃の花香り馥郁(ふくいく)桃源郷

桃の花
長野県阿智村の桃

”馥郁” とは辞書には「香気のかおる様子」となっていますが、俳句では ”馥郁” という語を使うのではなく、「かおる様子」を詠まなければなりません。

参考例 桃の香や歩いても歩いても尚

原句 暮れなずむ釈迦堂裏へ光満つ

句意は、釈迦堂の裏に夕刻の光が当たっていて、あたかもお釈迦様の後光になっているようだ、というもので、面白い処に着目した佳句です。季語「遅日」の子季語に「暮れかぬ」はありますが「暮れなずむ」はまだ子季語になっていないので、参考例では季語として「遅日」を使いました。 

参考例 釈迦堂の裏に遅日の光かな

游々子

初午や吟醸供ふ農詩人
出世せずとも浜松のうなぎ喰ふ
箸墓に眠る人あり桃の花