俳句的生活(286)-芭蕉の詠んだ京・近江(11)-詩仙堂ー

元禄四年5月5日、芭蕉は落柿舎を出て洛中の凡兆宅に移ります。野沢凡兆は、加賀藩士の家に生まれ、当初四代藩主前田光高に仕えましたが、武士を嫌って京都に出て、医師になったという人です。凡兆の洛中の家は、”小川椹木(さわらぎ)町上ル” という処にあり、大きな通りで言うと、堀川丸太町の交差点から少し東北東に進んだ処になります。

元禄四年という年は、芭蕉や門弟たちが8月に近江で三夜の月を愛でた年です。芭蕉は『猿蓑』の発刊を終える7月までは京の凡兆宅で過ごしていますが、落柿舎に居たときはほとんど外出しなかった芭蕉も洛中に入ってからは、たびたび芝居見物や名所旧跡を訪れています。6月1日には、曾良や去来たちと、吉田・白川を経て一乗寺の詩仙堂を見物しています。

詩仙堂は石川丈山(1583年~1672年)という徳川家康に仕えた武将が、晩年に風雅の道に入り、寛永13年(1636年)に丈山寺という寺を造り、その四畳半の間に中国の詩人三十六人の肖像を掲げたことによって、詩仙堂と呼ばれるようになったものです。

三十六詩仙の図
三十六詩仙の図(狩野探幽筆)

座敷は庭との境に壁がなく、開放的な造りになっています。私が50年前に初めてここを訪れた時は雨が降っていて、屋根からの滴りが襖のようになって、幻想的な光景となっていたものです。

詩仙堂の座敷
詩仙堂の座敷

芭蕉はここで次のような句を詠んでいます。

風かほる羽織は襟もつくろはず

詩仙堂には、狩野探幽が描いた肖像画として中国の三十六詩仙の他に丈山自身のものがあり、この句は芭蕉がその絵を見て詠まれたものです。句には「丈山之像謁」と前書きされています。

丈山像
丈山像(狩野探幽筆)

薫風を胸に受けて悠々自適の日々を送る丈山に共感しての句ですが、前書きが無いと状況が読めない句でもあります。

この日の芭蕉一行の行程は『曾良日記』に記されているのですが、芭蕉庵が造られている金福寺を訪れたという記載はありません。詩仙堂からは直ぐ近くの処にある寺ですので、不思議な感じがします。