俳句的生活(273)-平塚(9)三浦氏の館

平塚のことを調べている中で、1昨年放映されたNHKの大河「鎌倉殿の13人」に準主役で登場していた三浦義村の館が平塚の田村にあったことを知り、昨日自転車を走らせて、その跡地へ行ってきました。跡地には石碑と案内板が置かれていました。

三浦氏の田村の館跡の石碑
田村の館の案内板

石碑には次のような文面が彫られています。

この地一帯は鎌倉時代の武将三浦平六義村の館の跡である。承久元年七月、鎌倉第四代の征夷大将軍を嗣ぐべき人として迎えられた藤原頼経は五日間、この山荘に滞在し七月十九日晴れの鎌倉入府を行った。東鑑によると頼経将軍は数回来泊している。安貞二年七月廿三日もそのひとつである。この時は執権北條泰時連署北條時房ら鎌倉の将星多数が扈従し、三日間にわたり田村の秋興を満喫した。館は田村の渡しにつらなる古街道に面し、大手を北に□□ていたものと思われる。義村は延応元年十二月に歿している。この館はそれに前後して廃されたものと思う。
承久元年より七百四十年昭和丗四年春建

頼経が鎌倉に来た承久元年はまだ2歳の幼児で、そんな彼が4代将軍に選ばれたのは、頼朝の妹を曾祖母にしているという家系からでした。頼経は30余歳まで鎌倉にとどまりますが、成長とともに北条氏にとって邪魔者となり、五代将軍となった息子とともに京都へ追放されることになりました。石碑の文面からは三浦氏との関係が一番濃厚であったことが窺われます。

三浦義村は北条義時と同じ祖父をもつという従兄弟関係にあります。NHK大河では山本耕史さんが演じた武将です。何度も北条に反旗を向けようとしますが、その都度裏切りを繰り返し、最後まで義時から離れませんでした。三浦氏本流は義村の子の代で滅びますが、生き残った支族が木曽に遷り、島崎藤村の家の祖先となったことは、こちらに書いています。

ところで頼朝が挙兵したとき、相模の武士団はどのような構成になっていたのか、興味あるところです。そのころ有力な武将として居たのは、三浦氏、大庭氏、梶原氏で、9世紀まで遡ると平良文という坂東平氏を共通の祖先に持つ血縁関係にありました。源義家が奥州で戦をするときは、その配下となりますが、義家の3代後の義朝(頼朝の父親)の頃には複雑な関係になっていました。大庭氏は藤沢大庭の荘園を伊勢神宮に寄進し下司となっていましたが、そこへ義朝が三浦党などを引き連れて乱入し略奪を働きます。それが原因で、保元・平治の乱では三浦は義朝にくみし、大庭は保元では勅令で義朝に従いますが、平治では宿怨の義朝を離れ、清盛方につくことになりました。結果として、平氏政権の間は、相模は大庭氏が覇権を持つことになり、頼朝が挙兵した時の平氏側の総大将は大庭氏となったというのが経緯です。大庭氏は兄弟で源氏と平氏に分かれ、平氏滅亡後は兄の方が生き残り、茅ケ崎の懐島に大庭氏、寒川の一之宮に梶原氏、平塚の田村に三浦氏がそれぞれ館を構えることになりました。それぞれの館は不思議にも一直線に並んでいます。滅びたのは、梶原、大庭、三浦の順となっています。

石碑にも書かれているように、三浦義村の田村の館は田村の渡しに近く、交通の要衝を抑えていたことになります。義村の息子に父親と同じほどの政治性があり、したたかな行動が出来ていれば簡単に滅びることは無く、鎌倉時代の歴史は違ったものになっていたことでしょう。

田村の渡しの碑
渡しの案内板