俳句的生活(274)-平塚(10)平塚に居た大庭氏ー

源平の争乱時、大庭氏には兄の景義、弟の景親という兄弟がいて、それぞれ源氏と平家に分かれて戦ったということはNHK大河にも描かれていて、割と知られているのですが、彼等には更に二人の弟が居て、その内の一人は平塚に荘園を持ち、館を構えていたということは殆ど知られていません。弟の名は景俊といい、荘園が平塚の豊田にあったことから、豊田景俊と呼ばれています。

その荘園があった場所は、豊田本郷という平塚から伊勢原へ行く途中で、今そこに大庭四兄弟の父親であった大庭景宗の墳墓が大庭塚として残っているということで、いつものように自転車を駆って見てきました。

大庭塚
大庭塚説明板

大庭四兄弟の父親の景宗は、父祖より引き継いだ大庭御厨の在地領主を務めていたとき、源義朝の乱入を被っています。彼は藤沢の大庭、茅ケ崎の懐島、平塚の豊田に荘園を拓いていき、豊田荘は三男の景俊に継がせたのです。どのような経緯で景宗の墳墓が豊田荘に造られたのかは不明ですが、吾妻鏡には文治4年(1188年)に墳墓が盗掘にあったことが記されているので、景宗の死没はそれ以前であることだけは間違いありません。おそらくは義朝の乱入を被ったあと暫くしてのことではないかと思います。保元の乱の約10年前のことです。景俊のこともほとんど資料がなく、頼朝に従軍した石橋山で戦死した説が有力となっています。文治4年には大庭の本家を嗣いでいた景親が既に亡くなっていますから、豊田荘も盗掘されたときは大庭氏のものでは無くなっていたのではないかと思います。前稿の三浦義村の田村の館も、元は大庭氏の所有するものだったのです。

大庭氏は、四兄弟の五代前の平良文を祖先とするもので、常陸で乱を起こした平将門の叔父になる人です。また良文は平清盛の祖先である平国香の弟となっています。良文からの系列は鎌倉党と呼ばれていて、三浦氏や梶原氏は同族です。彼らは清盛が政権を握ったときには既に平家一門として扱われることはなく、都で高位高官につくことはありませんでした。

一般に「源平の戦い」というと「源氏対平家」の戦いという印象を受けますが、実際はそのようなものではありませんでした。平氏政権の時代、平氏は都から目代(もくだい)を派遣し、在地の豪族(在地領主)を支配し、収奪を行っていったのです。頼朝が最初に討ち取ったのは山木判官という目代で、討ってすぐに「目代の支配は無くなった,これからは自分が伊豆を支配する」と宣言し,豪族達の支持を獲得していきました.千葉にわたった頼朝は,豪族達を味方に引き入れ,房総や常陸の国府を次々と襲い、頼朝に逆らった平氏や豪族の支配地を奪い、働きのあった武士たちにすぐ恩賞を与えていったのです。従ってこの「源平の戦い」の実態は、在地領主が中央の政権に反旗を翻し、中央からの独立を獲得していったと理解するのが当たっています。頼朝は在地豪族の神輿でしかなく、在地豪族の思惑は、源氏に政権を取らせることでも何でもなかったのです。この辺りが徳川家康が江戸幕府を作ったときとの大きな違いで、家康には多くの譜代家臣がいたけれど、頼朝にはそれが皆無で、神輿以上には成れなかったのでした。

大庭塚の近くには、家康が中原御殿が出来るまで立ち寄っていた清雲寺があり、帰りに寄ってきました。

清雲寺
清雲碑文

行く春や治承寿永の塚の跡  游々子