俳句的生活(285)-芭蕉の詠んだ京・近江(10)嵯峨日記(3)ー

4月下旬から5月初めにかけての京都、初夏の爽やかな時節ですが、芭蕉はほとんど市中に出掛けることをせず、もっぱら落柿舎に籠ったままの生活を送り、代わって凡兆と去来がさかんに落柿舎を訪ねて来ています。その訳は当時『猿蓑』の編集が佳境に入っていたからで、三人は落柿舎で編集会議をしていたのです。

猿蓑はこの年の7月に出版されています。作者の総数は118人、382句が収められています。このうち芭蕉の句は40句、編集長を務めた凡兆は最多となる41句が入集しています。蕉門の弟子の一人は『猿蓑』をもって「俳諧の古今集」と評するほど、一門にとっては高揚感あふれる事業となっていました。

『猿蓑』初版本
『猿蓑』初版本

芭蕉はこの間、一人の時は近江で書いた草稿を清書したり、西行の文を半紙に書いてみたりと、閑寂を楽しんでいます。

4月22日の句 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥
4月23日の句 手を打てば木魂に明くる夏の月

落柿舎での滞在があとわずかとなった5月2日、芭蕉は去来・曾良と共に大堰川での舟遊びを楽しんでいます。曾良は「奥の細道」を芭蕉に随行した門弟です。5月2日に落柿舎に訪問していて、芭蕉は『嵯峨日記で』次のように記しています。

二日、曾良来 りて吉野の花を尋て、熊野に詣侍るよし。武江旧友・門人の はなし、彼是取まぜて談ず。
熊野路や分けつゝ入れば夏の海 曾良
大峰や吉野の奥を花の果て   々

夕陽にかゝりて、大井川に舟をうかべて、嵐山にそふて戸難瀬をのぼる。雨降り出て、暮 ニ及て歸る。

三船祭の大堰川
三船祭の大堰川

5月4日夕刻、曾良は落柿舎を去り、芭蕉は今日が落柿舎での最後の日ということで舎内を見廻り、あらためて零落した舎の形状を句にしています。嵯峨日記最後の一句です。

五月雨や色紙へぎたる壁の跡 (元禄4年五月四日 芭蕉48歳)

翌5月5日は洛中の凡兆宅に移り、7月までここを主宿として過ごすことになりました。