俳句的生活(287)-芭蕉の詠んだ京・近江(12)無名庵と幻住庵-

江戸時代、近江の国は10の藩より成っていて、総石高は80万石という面積の割には石高が多く、豊かな国でありました。最大の藩は近江の北半分を占める彦根藩の35万石で、残りは9つの藩で分割されていました。芭蕉が近江で滞在したのは膳所(ぜぜ)という処で、それは9つの藩で一番大きく7万石を領有する藩でした。当時の膳所城は琵琶湖に張り出した土地に造られた水城でしたが、明治に廃城となり、再建されることなく現在は城址公園となっています。

膳所城址
膳所城址

芭蕉は「奥の細道」に旅立つに当たって、その旅費を捻出するために、深川の芭蕉庵を人手に渡していました。家も金も無いという状態で近江に来た芭蕉でしたが、芭蕉は膳所藩の上級藩士を門弟に持ち、彼らの支援で宿所を含めた生活が成り立っていたのです。無名庵は、膳所藩の中老であった水田正秀らが芭蕉のために義仲寺の境内に作った庵で、当初は粟津草庵と呼称されていました。

芭蕉は「奥の細道」を成し遂げたあと、一度伊賀に戻り、京都を経て膳所に入り無名庵で越年しています。この時、膳所草庵を人々訪ひけるに という前書きで、

霰(あられ)せば網代の氷魚(ひを)を煮て出さん  (元禄三年正月)

と詠んでいます。

句意は、正月に草庵を訪ねてきた人々に向かって、さあ近江名物の網代の氷魚を煮て進ぜよう、こんな時に霰でもさっと降ってくれれば興趣は盛り上がるのだが、というものです。季語は霰と氷魚の二つが該当します。

元禄4年(1691)春、水田正秀らにより庵は改築され、京都で『猿蓑』を発刊したあと、9月末までここで過ごしています。現在の無名庵は、当時の面影が片鱗もないほどに建て替わっていて、一般の句会の場に提供されていますが、落柿舎や鴫立庵のように茅葺で復元されていればと思わずにはいられません。

無名庵(入口)

元禄三年四月六日、芭蕉は無名庵から幻住庵という処に移動しています。ここは水田正秀と同じく、膳所藩士の菅沼 曲水という芭蕉の門弟が、伯父の別荘を手入れして芭蕉に提供したものです。

入庵の初日、芭蕉は石山の奥幻住庵に入りてという前書きに続けて次の句を詠んでいます。

まづ頼む椎の木もあり夏木立

句意は、長い漂白のあと、この庵に入ってみると、周囲の夏木立の中に立派な椎の木があり、身を寄せるに頼もしく、ほっとした心地がする、というものです。

幻住庵
幻住庵

芭蕉はここでの4か月間の生活を『幻住庵記』という俳文にまとめています。庵は雨漏りがして狐や狸が住むような処と記していますが、全体にはゆったり落ち着いた感じが出た秀作となっています。