俳句的生活(271)-平塚(7)中原街道ー

前稿で、道路標識での中原街道の行き先が、平塚でなく茅ヶ崎になっていることを紹介しましたが、多少補足をしておきたいと思います。

虎ノ門を起点とする中原街道は、多摩川を越えて神奈川県に入った所より、名称が県道45号線となり、寒川町で大山街道とクロスします。そこまでは略々旧中原街道と一致しているのですが、県道45号線は、大山街道から田村の渡しへ向かうのではなく、南へと向かい茅ヶ崎駅北口に通じているのです。そのために標識では中原街道の向い先を「茅ケ崎」としたのだと思います。

もちろん今では、田村の渡しには橋が付けられていて、相模川を越えて車で平塚に入ることは出来ます。では何故、県道45号線を平塚の中原御殿跡(中原小学校)に向けて延ばさなかったかということですが、江戸時代に中原御殿を作った時、周辺の道路を御殿防御の観点から鍵型に作ってあったため、中原街道をなぞるように県道45号線を作ることが出来なかった、というのが真実ではないでしょうか。私は現地を訪れて写真を撮る時、スマホで地図を表示しながら自転車を走らせるのですが、斜めになった道は結構、位置確認が難しいものです。但しこのような道の作り方は江戸時代では常識であった様で、駿府を自転車で走った時も同じ感想を抱きました。そのときのことは、こちらのブログを参照してください。

斜めになっている旧中原街道には、次のような石碑と案内板が作られています。

中原街道の石碑
中原街道の案内板

真土という地区は、少し西に行った処に、渋田川という花水川の上流となる川があり、両岸の土手には600本もの桜の樹が植えられています。我家からは自転車で30分の近さで、以前はよく花見に行ったものでした。