俳句的生活(270)-平塚(6)中原御殿ー

私が大学を卒業して就職した所は、南武線武蔵中原の駅前にあるコンピューターを製作する会社の工場だったのですが、当時の私は、武蔵中原という地名は昔の武蔵野に由来し、傍らの中原街道という道も、武蔵中原に依ったものと思っていました。ところが後年、それらは全て平塚の中原御殿を源流とするものであることを知り、愕然としたものです。

中原街道は、かつては相州道(そうしゅうどう・そうしゅうみち)と呼ばれ、武蔵国と相模国を結ぶ道として、古代では東海道の一部であったと言われています。徳川家康が関東に入府した天正19年(1591年)には未だ現在のような東海道は整備されてなく、家康が専ら使用した道はこの相州道でした。当然のことながら宿泊する施設を作る必要があり、慶長元年(1596年)、平塚の中原に7100坪の広大な敷地を持つ中原御殿が作られました。この中原の地が選ばれたのは、私の推測ですが、小田原北条氏の時代に中原で500貫(注)の知行地を持っていた北条氏の旧臣が、北条氏滅亡後家康に帰属し、後に中原代官に選任されていることと関係があるのではと思っています。(注)1貫とは銅銭1000枚のことで、現在価格で約10万円。

中原御殿は現在中原小学校となっていて、校庭を囲むフェンスの内側に、相州中原御殿之碑が置かれているだけになっています。

中原御殿跡

中原御殿が作られた後、中原街道にはもう一つの宿泊所である小杉御殿が作られました。その理由は、江戸から中原御殿までは60km以上あり、当時還暦を迎えようとしていた家康が、騎馬にせよ駕籠にせよ、1日で到着するのは無理な距離であったためです。

そうした御殿ですが、明暦の大火(1657年)に江戸城が被災すると、その修理用材として解体されてしまい、今姿をとどめているのは、善徳寺に移築された御殿の裏門だけとなっています。

善徳寺山門

中原御殿は解体後、黒松の植林が行われ、中原御林(おはやし)と呼ばれました。明治になってこれらの黒松は鉄道用材として全て伐り出され、その後は耕地となりますが、現在は全て住宅地となっています。

中原御林

江戸時代の街道はすべて江戸が起点となっていて、江戸から府中に向かう道は府中街道、鎌倉に向かう道は鎌倉街道といったように、目的地の地名をとって名付けられましたが、同様に中原街道も行先の地名が付けられる街道となったのです。五街道の起点は日本橋ですが、中原街道は江戸城虎御門つまり現在の虎ノ門あたりが起点となっています。その理由ですが、太田道灌によって築城された江戸城は、後に北条氏のものとなり、本拠地の相模から江戸城へつながる道が必要だったからです。北条氏はその整備を、狼煙を揚げながら工事を進めることで、最短の直線の道を作ったと言われています。

多摩川を丸子橋で渡り、川崎に入って来たところの道路標識に次のようなものがあります。

標識

標識の標す方向が、平塚ではなく茅ヶ崎と表示されているのです。中原街道は茅ケ崎ではなく、寒川町を経由して田村の渡しから平塚につながっているので、やや奇異な感じがします。