俳句的生活(272)-平塚(8)相模国府ー

古代史において長年論争のテーマであったものが、新しく遺跡が発掘されたことによって、大きく進展することがマゝ起こります。その最大のものは邪馬台国の場所を特定するもので、奈良県桜井市の纏向遺跡において、C14という放射性炭素の半減期による年代測定で、遺跡の年代が魏志倭人伝に記述されている年代と、誤差10年の範囲で一致したことです。これにより、纏向が邪馬台国の中心地であったことが揺るぎないものとなり、大和王権がここから始まったと推定されるようになりました。卑弥呼は大和王権の初代女王なのです。

似たようなことが、相模の国府が何処にあったのかという疑問に解を与えることが、発掘によって成されました。それは新湘南新道で銀河大橋を作る際、相模川の平塚側の道路建設で土地を掘り返していた時のことです。

相模国府跡

写真のような掘立穴跡が発掘され、それは国府の脇殿のものであると特定されたのです。場所は四之宮と呼ばれる前鳥(さきとり)神社の直ぐ南に位置したところです。更に付近の遺跡からは、”國厨” や ”郡厨” と墨書された土器が発見され、平塚の四之宮こそが、相模国府の置かれた処に違いないと推定されるようになりました。

國厨土器

平塚四之宮が相模国府であると見なされる前は、海老名と大磯に相模国府は置かれていたと思われていました。それは、海老名には国分寺があり、大磯には国府本郷という地名があり総社と呼ばれる六所神社があることに依るのですが、ともに国府跡を示す遺跡は出ていないのです。

では、四之宮に国府が置かれていたとしたとき、国分寺はどこにあったのか、という疑問が起こります。私はそれは茅ケ崎の下寺尾の郡衙の隣にあり七重塔を擁した廃寺が国分寺だったのではないかとの仮説を立てています。仮説を立てるのは自由で、発掘遺跡によってのみ検証されます。9世紀に入ると、四之宮の国府も茅ケ崎の郡衙も同じ時期にともに衰退していきます。国府が大磯に遷ったことに依るものなのか、まだ解明はされていません。

古代の東海道は、東へは四之宮をかすめて相模川の四之宮の渡しに通じ、西へは中原街道より秦野に向かい、足柄峠へと通じています。四之宮は古代において交通の要衝地だったのです。