俳句的生活(283)-芭蕉の詠んだ京・近江(6)京と江戸

芭蕉の「近江で詠んだ句」を5回ほど続けましたので、目先を変えるために京都に移ろうと思います。29歳で江戸に渡った芭蕉は9年間を都心で過ごし、桃青の俳号でもって俳諧宗匠の仲間入りをしていきます。そのころ詠んだ句に次のようなものがあります。

天秤や京江戸かけて千代の春  (延宝四年(1676年)7月 芭蕉33歳)

句意は、「天秤に京と江戸をかけてみてもどちらが栄えているとも言い難い。まことにめでたい新春だ」というものです。”天秤にかける” という表現が、当時の滑稽さを求めた風潮のもので、後に蕉風と呼ばれた芸術性ある句とは隔絶の感があります。

ところで、当時の京と江戸はどのような都市であったのか、それは人口の推移で垣間見ることが出来ます。

三都の人口
高島正憲「賃金の日本史」吉川弘文館(2023)より

芭蕉が生まれた1650年頃は、京と江戸の人口は共に43万人で拮抗していましたが、芭蕉が俳句活動を行った1600年代の終り頃には大分の差が生じてきます。それにも関わらず二都の盛りが均衡しているかの如く詠まれているのは、日本全体が豊かになろうとしていた時期であったからです。世界史的には17世紀というのは危機の時代と位置付けられていて、ユーラシア大陸では地球の寒冷化のため作物の生産量が落ち、ヨーロッパでは王位継承の絡んだ30年戦争、中国では北方からの女真族の侵入による明清革命が起こっています。それが日本では、戦国の時代が終わり、農業生産が拡大し、人口を養うのに余力が生じていたことに依っています。

この頃の芭蕉は、神田上水の工事現場での監督業のような仕事をしたりしていますが、俳句宗匠としての点料で生活を賄っていくというようなことに懐疑を抱くようになり、延宝八年(1680年)芭蕉37歳のときに、俳句宗匠の地位を捨てて市中からまだ新開地であった深川に移住することになりました。芭蕉の芸術的な句は、これ以降生まれることになります。

芭蕉が京をリスペクトしていたことを示す句としては次のようなものもあります。

川かぜや薄がききたる夕涼み  (元禄3年(1690)6月、芭蕉47歳)

句の前書きには「四条の川原涼みとて、夕月夜のころより有明過るころまで、川中に床をならべて、夜すがら酒のみ、もの喰ひ遊ぶ。女は帯の結び目いかめしく、男は羽織長う着なして、法師・老人ともに交わり、桶屋・鍛冶屋の弟子子(でしご)まで、いとま得意に歌ひののしる。流石に都の気色なるべしと書かれています。江戸では見られない光景として、驚嘆しリスペクトしている様が窺えます。

鴨川の川涼み
「みやこ名勝図会」より

句の中七は、”薄柿色の涼み着を着て” という意味です。このときの京都滞在は、6月初めから18日までで、宿所は弟子の凡兆宅となっています。ここでは弟子の去来と合わせて三人で、三吟歌仙(3人による連歌)を行っています。

市中(いちなか)は物の匂ひや夏の月  凡兆
暑し暑しと門々(かどかど)の声  芭蕉
二番草取りも果たさず穂に出でて  去来

また、この在京中には次の句も作っています。

京にても京なつかしやほととぎす
我に似るなふたつに割れし真桑瓜

次稿より元禄四年春、落柿舎滞在中に記した「嵯峨日記」を見ていくことにします。