俳句的生活(283)-芭蕉の詠んだ京・近江(8)嵯峨日記(1)-

嵯峨野散策の定番コースは、先ず嵐山の渡月橋辺りをぶらついたあと天龍寺に向かい、大方丈からの曹源池の眺めや枝垂桜を愛でて竹林に入り、源氏物語ゆかりの野々宮神社で斎宮についての案内板を読み、最後は平家物語の清盛の愛妾たちの祇王寺に向かおうとするものです。その途中、野原越しに見えてくる庵が落柿舎です。

落柿舎
落柿舎

落柿舎は元々は京都の富豪が建てたものを、元禄の初めに向井去来が買い取り、去来の死の66年後に一度建て替えられ、明治になって再々建されたものが現在に引き継がれているという庵です。ここは今、日本三大俳句道場の一つとして、句会を行う場として一般に開放されています。

落柿舎での句会
京大俳句会の落柿舎吟行より

元禄四年春、伊賀上野に戻っていた芭蕉は、奈良・大津を経て京都に入り、4月18日に去来の別荘となっていた西嵯峨の落柿舎に入っています。5月4日までの滞在の間、芭蕉は毎日のように日記を記し、俳句も13句残しています。それは今「嵯峨日記」と称されているものです。

4月18日には、去来は在宅してなく、その代わりに文机には芭蕉が退屈しないよう、白氏文集・本朝百人一首・世継物語・源氏物語・土佐日記・松葉集が置かれ、菓子や酒なども用意されていたと記されています。去来にこのような気配りが備わったのは、彼は蘭学医の家系で育ち、自らは殿上が許されている上級貴族に仕えたというキャリアによるものだと思われます。

翌19日、芭蕉は臨川寺に詣で、小督屋敷を見て廻っています。この二つは大堰川に面し、渡月橋東詰めの南と北に位置しています。

この日に詠んだ句は次の二句です。

憂き節や竹の子となる人の果(はて)
嵐山藪の茂りや風の筋

”憂き節” や ”風の筋” の ”節” は竹の節に掛けたものです。平安末期に天皇の寵愛を受けた小督局の墓も今や竹藪の中に埋もれてしまい、竹の子となってしまったという句です。芭蕉は嵯峨日記のなかで、その塚は三間屋の隣、藪の中にあり。しるしに桜を植えたりと記していて、藪の中には目印の桜が植えられていたようです。それは今、小督桜と呼ばれている桜です。「三間屋」というのは、谷崎潤一郎の『細雪』に描かれている料亭旅館「三軒家」のことです。その一節は川に沿うて三軒家の前を西に行き、小督局の墓所を右に見て、あの遊覧船の発着所の前を過ぎ、というものです。

三間家は江戸時代には有名な料亭であったらしく、『都名所之内』にも描かれています。

三間家楼上からの眺め
三間家楼上からの嵐山の眺望(都名所之内より)

三間家は明治になり、三軒あった料亭(雪・月・花)が 嵐山三軒家として再出発しています。ここには正岡子規、高浜虚子、谷崎潤一郎、芥川龍之介ら多くの文人たちが訪れたそうです。

明治期の嵐山三軒家
明治30年代の嵐山三軒家

この日、門弟の凡兆が来訪してきて宿泊、去来は一旦来たものの京都の本宅に戻った、となっています。京都市中から落柿舎までは二里の距離です。それを簡単に往復するとは、江戸時代の人の脚力は大したものです。