俳句的生活(284)芭蕉の詠んだ京・近江(9)嵯峨日記(2)-

4月20日は愛宕権現の例祭(嵯峨祭)があり、凡兆が妻を同伴して来訪して来ました。

愛宕山
渡月橋と愛宕山

愛宕山は落柿舎からは一里あまり北に聳えています。この日は去来も加わり、四人での一日となりました。日記には落柿舎についての描写がされています。

落柿舍は昔のあるじの作れるまゝにして、処々頽破す。中/\に作みがゝれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とゞまれ。彫せし梁 、畫がける壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるに、竹縁の前に袖の木ひと本、花のかおり芳しけれは、

これが前書きとなり、続けて二句が記載されています。

袖(ゆ)の花や昔しのばん料理の間

句意は、柚の花の香りが漂って来るが、かつて富豪の住んだ頃の落柿舍では、この古びた料理の間にも華やかな料理が並べられて、柚の香りの中で料理を楽しんだのであろうか、というものです。

ほとゝきす大竹藪をもる月夜

句意は、ほととぎすが鳴き過ぎ、振り向くと、大竹藪は暗がりから月の明かりがもれ込んでいる、というもので、竹藪を舞台にして、音と光が交錯する様を詠んでいます.

この日は、去来の兄嫁からの差し入れがあり、使いの者を合わせて五人でひと張りの蚊帳を吊るして眠ています。ところが流石に眠れたものではなく、夜半より起き出して、昼に届けられた菓子や調菜(精進料理などの副食物)、酒で明け方まで話し込むことになってしまいました。話題は、去年の夏に凡兆の家に泊まった折、二畳の蚊帳に四つの地方からの人の四人で寝たことなどで、笑い合ったということです。

ところで京都の右京は土地が低く、たびたび紙屋川(天神川)の洪水に見舞われ、京都の中心は左京に移っていきました。江戸時代、右京の大半は田畑となり、石高として2400石が記されるまでになっています。京都特産の九条ネギは、その時分に右京で栽培が始まったものです。一方嵯峨野は嵐山や小倉山の山麓の土地で、紙屋川の洪水とは無縁でした。更に江戸時代初期に角倉了以による保津川の改修を経て、嵯峨は丹波と京都をつなぐ水運の要衝地となり、元禄の頃には多くの問屋が並ぶほどの地域となっていたのです。

角倉了以像
角倉了以像(二尊院)