俳句的生活(280)-芭蕉の詠んだ京・近江(3)行く春をー

明和五年(1768年)、芭蕉の75回忌が膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)で行われました。このとき回忌を仕切った蝶夢法師という京都寺町の阿弥陀寺の住職が、顕彰事業の一つとして「三十六俳仙」というものを編み、36人の芭蕉門の俳人を挙げています。これを地域別で分けてみると、近江は12人で、2位の江戸の5人を大きく離しています。これより芭蕉がどれほど深く近江の地に根を降ろしていたのかを窺い知ることが出来ます。芭蕉の近江での門弟の顔ぶれは、医者や商人、僧、武士といった多彩なものとなっています。

元禄三年(1690年)3月、伊賀上野より膳所へ出てきた芭蕉は、そうした門弟たちと琵琶湖唐崎で船を出して、春の一日を楽しんでいます。そのときの句が、近江を詠んだ句として最も有名な次の句です。

行く春を近江の人と惜しみける  (元禄三年 芭蕉47歳)

”近江の人” とは直接的には船に乗っている門人たちを指していますが、芭蕉には天智天皇の近江京からの千年、湖国を愛でた数々の古歌が脳裏に浮かび、先人たちを含めて近江全体の人と、湖上の春を楽しもうと詠んだ句です。

古来琵琶湖は水運の盛んなところで、芭蕉のように舟遊びをするのに適した処でした。水運に使われた当時の舟は、丸子船(丸木船)と呼ばれていて、帆を架ける舟となっていました。

丸子船の図

琵琶湖水運というのは、日本海で取れた海産物を始め、北国諸藩からのたくさんの物資を敦賀で陸揚げし、深坂峠を越えて塩津港で再び船積みして、湖上を大津・堅田まで運び、再び陸揚げして京都、大坂へと運ぶ、というものでした。ところが元禄の頃より、北陸から下関を廻り瀬戸内海を航行するという北前船の西回り航路が開拓され、琵琶湖水運も衰退を始めることになります。芭蕉の生きた時代が、琵琶湖水運の最盛期だったのです。

余談ですが、今NHK大河で放映されている紫式部も、父藤原為時に随行して越前に赴くとき、やはり琵琶湖を船で塩津まで行き、深坂古道を通って敦賀に至っています。深坂峠を詠んだ歌は次のものです。

知りぬらむ往き来にならす塩津山
世に経る道はからきものぞと

歌の意味は「お前たちこれで分かったでしょう。通いなれたこの道もつらいけど、世の中の道はもっと厳しいものですよ」というものです。

琵琶湖はまた、東海道のショートカットとして、草津の矢橋(やばせ)から大津への渡しが運航されていました。矢橋の帰帆と呼ばれ、近江八景の一つとなっています。

矢橋の帰帆(広重)

こうしたことから、芭蕉たちが船をチャーターするのは、日常の事だったのではないかと推測しています。

膳所や唐崎の地域は湖南と呼ばれています。義仲寺や無名庵については徐々に説明していきます。

蛇足となりますが、この句に対して門人の一人が、”行く春” と ”近江の人” は別のものであっても良いのではないかと、難じたことがあります。俳句ではそうしたことを「動く」というのですが、去来はそれはあり得ないとし、芭蕉は一笑に付しています。私もこれは近江でないと、句の価値はないものと思っています。

本句は初め、上五で ”や” を使い、「行く春や近江の人と惜しみける」となっていました。現在の「行く春を」は推敲されたものです。”や” で切ると比重が上五に移ってしまい、句に焦点が二つ生じることになってしまいます。本句では「行く春」は「惜しむ」の目的語であることをはっきりさせた方が良く、「行く春を」が適切だったのです。また下五の初案は、”ける” ではなく ”けり” となっていました。これも推敲によって ”ける” になったのですが、この方が湖上の朦朧とした水気を感じられます。この句の句碑は滋賀県内に4つあり、その内の一つ長浜市の句碑では ”けり” が採用されています。

長浜市酢公民館の句碑(行く春を近江の人と惜しみけり)