俳句的生活(276)-平塚(11)老中を輩出した平塚の氏族ー

平安時代の末期、相模川の西側から小田原の酒匂川に至る地域に、中村党と呼ばれる武士団がいました。平塚の土屋に居た中村氏の分流は、領地の土屋を家名にして土屋姓を名乗り、その初代は頼朝の旗揚げに参じた土屋宗遠となっています。土屋という地域は平塚の北部で、伊勢原に近い処です。今その土屋には、一族の墓と昭和54年にまだ19歳であった浩宮徳仁殿下が見学訪問された記念碑が遺されています。

土屋一族の墓
土屋一族の墓
浩宮の記念碑
浩宮殿下の見学記念碑

土屋宗遠は頼朝より10歳年上で、90歳まで生きた武将でしたが、85歳のときに和田義盛の乱に連座し、土屋本家は滅亡してしまいました。ところが土屋の一族の中に、頼朝が平家と富士川で戦おうとしたとき、甲斐源氏の武田氏に参戦を促す使者に立ったのが、室町戦国時代を通じて武田の重臣となり、血脈は繋がれていきました。しかも武田が滅んだ後は家康に臣従し、旗本からスタートしたその一族からは、江戸時代、親子そろって老中になるという快挙を成し遂げているのです。

最初に老中になったのは土屋忠直という人物で、彼は500俵(200石)取りからスタートするのですが、漸次出世をしていき若年寄を経て4代将軍家綱の時に老中に就任、この時の石高は4万5千石にまでなっています。更にその4万5千石を継いだ子の土屋政直という人はもっと凄く、大阪城代、京都所司代を経て46歳の時に老中となり、11年後の元禄11年(1698年)には老中首座に就任しています。将軍は綱吉のときですが、彼の老中首座は吉宗が将軍となった2年後の享保3年(1718年)まで続いているのです。今の政治でいえば老中は閣僚、老中首座は総理大臣ということですが、なんと老中には31年間、老中首座には20年間在職していたことになります。これは徳川270年の中で最長の老中在任で、老中首座の20年は、近年の安倍総理の8年を大幅に超えています。

政直が在任中の大事件は、なんといっても赤穂事件です。忠臣蔵のドラマでよく描かれるのは、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたとき、隣の屋敷から塀越しに提灯の灯りが差し出され、主人の旗本が、塀を越えてくるものが居れば追い返せ、と命じる場面ですが、この時の旗本というのは土屋政直の従甥(いとこの甥)の土屋主税という3000石の寄り合い旗本でした。彼はすぐさま政直に使いを走らせ、討ち入りが起こったことを知らせています。政直の取った処置は、吉良の親戚である上杉家に対して、援軍を送ってはならぬと命じるものでした。

ドラマに出てくる土屋主税という旗本は、宝井其角を俳諧の師匠とする洒脱な人でした。其角もそのタイプの人で、彼の代表句は明治になって浮世絵にもされているほどです。

宝井其角の代表句の浮世絵
其角の代表句「名月や畳の上に松の影」を描いた浮世絵

政直の家禄は最終的に9万5千石となり、徳川期を最後まで大名として乗り切っています。明治になってからは子爵となり、銀行経営をしたり貴族院議員として続くことになりました。