俳句的生活(277)-平塚(12)ヤマトタケルの東征ー

平塚駅のほぼ真北、真土(しんど)という地区には、真土大塚山古墳と呼称されている古墳があります。4世紀前半に築造されたもので、この地区の豪族のものであろうと言われています。昭和35年までに二度部分的な発掘調査がされたのですが、その後工場建設のために盛土が全て削られてしまい、現在ではどのような形状のものであったのかすら解明できなくなってしまいました。最初の調査となる昭和10年に出土した三角縁神獣鏡は、神奈川の古墳の中ではここだけからのものとなっていて、畿内の王権と特別の関係があったことを示唆しています。

盛土を削ってしまったことへの懺悔なのか、平塚市は元々の古墳のあった場所から少し離れたところに、真土大塚山古墳公園というのを造っています。昨日、ここに自転車で行ってみました。

真土大塚山古墳公園
後方の丘は1/2のサイズで復元された前方後円墳

この公園には大きさを1/2にした前方後円墳が造られていて、大勢の子供たちの遊び場となっていました。

私がこの古墳に着目するのは、4世紀前半という築造年代が、大和王権が全国に支配地域を広げていた時期と重なっていることです。それについて直ぐに想起するのはヤマトタケルの東征です。彼は第10代崇神天皇の曽孫になる人物で、崇神天皇という大王が邪馬台国を継承して大和王権を創始したとすれば、曽孫となるヤマトタケルは4世紀前半の人ということになり、古墳の時期に合致してくるのです。

ヤマトタケルについては、古事記と日本書紀という二つの記紀に登場してきます。その表記ですが、古事記では倭建命、日本書紀では日本建尊となっています。二つの記紀の違いは、草薙の剣によって難を逃れたという野火にも現れています。日本書紀では駿河の賊によってのものであり、古事記では相武(そうむ)の国造(くにのみやっこ)によるものとなっています。私の判断は、真土の古墳から三角縁神獣鏡が出土していることにより、4世紀前半には相模は大和王権に臣属していたと思われ、日本書紀の記述が当たっていると思っています。

三角縁神獣鏡
真土大塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡

ヤマトタケルの軍勢は足柄峠を越えて相模に入り、三浦半島の走水に至ったことは、二つの記紀に共通して書かれているのですが、その途中については何も触れられていません。よってどのようなルートを辿ったかの推測は、地域に残されている伝承に頼るしかありません。そこで私の土地勘があるところを挙げてみますと、

* 平塚四之宮の前鳥(さきとり)神社の祭神がヤマトタケルになっている
* 茅ケ崎芹沢にヤマトタケルが腰掛けたという腰掛神社(こちら)がある
* 弟橘媛(おとたちばなひめ)が浦賀水道で身を投げたとき、櫛が二宮海岸に流れ着き、それを祀って吾妻神社が創られている

というようなものがあり、ヤマトタケルの一行は足柄峠から厚木に向かい、相模川を下って平塚・茅ヶ崎を経由して三浦半島に至ったことが推測できます。

腰掛神社
ヤマトタケルが腰掛けた石が玉石として祀られている腰掛神社

ヤマトタケルより約150年後の西暦478年、第21代雄略天皇であろうと比定されている倭王武が宋に届けた上表文の冒頭には、

昔、祖彌(そでい)、躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。北の海を渡りて平らぐること九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」(『宋書』倭国伝)

と記されています。中国の古典『春秋』などが引用されている見事な漢文で、中国人からみてもその見事さから、宋書にもそのまま記載されているものですが、これだけの文を書けるのは、当時の中国での戦乱を逃れて日本に渡来してきた知識人が、大和王権の外交顧問となっていて、そうした人物によるものでないかと推測されています。ここに記述されているのは、まさにヤマトタケルの時代を映したものとなっています。

ヤマトタケルと父親である第12代景行天皇との関係についても、二つの記紀には大きな違いがあります。よく知られているように、古事記では父親から疎まれていたことになっていますが、日本書紀ではそれとは真逆に、出征時には父親から次の大王はヤマトタケルであるであることが宣言され、激励を受けています。ヤマトタケルの正妻は第11代垂仁天皇の皇女であり、彼の子供や子孫が皇統を継いでいます。古事記に描かれているような親子関係であれば、こうしたことは起こりえないことです。