俳句的生活(267)-平塚(3)須賀村ー

須賀千軒と称された須賀は、中世から江戸期を通じ、相模の表玄関の地位を占めていました。その繁栄振りを『平塚の地誌』では、アメリカのミシシッピー川の河口の港湾都市ニューオーリンズに準えて、次のようなイメージ図を掲載しています。

須賀

相模の内陸の物資は相模川の水運で須賀湊に集積され、それが400石船に積み替えられて江戸を含む近隣に輸送され、その逆のルートでも、物資を内陸に運んでいたのです。須賀村の戸数は平塚宿と平塚新宿を合わせたものよりも多く、その経済力の豊かさによって、馬入の渡しを主管するようになっていました。

次の地図は、須賀も馬入と同じように、茅ケ崎側に行政区域を持っていることを示しています。

須賀湊

その理由も、相模川の流路の移動によるものです。次の図は関東大震災を挟んでの、明治と昭和の流路を表しています。

相模川流路

明治24年と41-42年の流路は余り変化がなく、昭和22年で大きく変化しています。これは関東大震災で柳島が1.5m隆起したため、水郷的な流路は消滅し、現在のような本流1本の流れになったのです。その結果、茅ケ崎側に須賀の区域が残ることになりました。

須賀という地名は、現在はこの茅ケ崎側のものだけになってしまい、平塚側では全く無くなっています。駅の周辺が中心地になったことに依るものと思いますが、かっての栄光を思うと寂しい限りです。

戦国の北条から江戸の元禄の頃まで、須賀は相模川の水運を独占していました。須賀村の船は平塚・大磯地域の中郡のみならず、西郡(足柄上郡・足柄下郡)や東郡(高座郡・鎌倉郡)の年貢輸送も一手に担っていて、須賀湊は相模湾岸の海運の中心地であり、とくに年貢輸送に関しては独占的な地位にありました。

ところが相模川の流路は度々変遷し、茅ケ崎側の柳島村も相模川の水運に参入するようになると、両村において、争論が始まりました。元禄4年2月、柳島村からは幕府に廻船営業の許可を求める訴状が出され、これに対して須賀村は廻船業の独占を望み、須賀村は馬入の渡船役を負担しているが、柳島村では負担していないことを理由に柳島村の主張に反対しました。5月、幕府は廻船業を「須賀一村に相定めるべきいわれこれ無く」として須賀村の独占を認めず、柳島村の廻船業を許可する裁許を下しました。これにともない、柳島村も馬入の渡船役を負担することになったことが『茅ヶ崎市史』に記されていて、次のような幕府による裁許状が残っています。

裁定状

この時より10年後の元禄15年には、同じような争いが、茅ケ崎の柳島村と南湖村との間で起こっています。南湖には相模川の分流である松尾川が流れ、東海道に面する茶屋町にまで舟が着けるようになっていたのです。このときの幕府の裁定も、南湖村の船が柳島村百姓を船宿にして柳島湊を往来することを認めるというものでした。

このように徐々に須賀の独占的地位は低下して行ったのですが、決定的な打撃となったのは、鉄道の敷設によって輸送形態が変わったことと、関東大震災で須賀湊も隆起し、大型船が入港できなくなってしまったことです。茅ケ崎側の柳島湊と同じことが起こってしまったということです。

ところで、明治33年に発表された鉄道唱歌ですが、奇妙なことに、横須賀線については細かく描いているのに、東海道線の藤沢・茅ヶ崎・平塚は省略されて、一気に大磯にまで飛んでいることです。須賀がまだ繁栄している時期ですので、残念な気がします。

横須賀ゆきは乗替と
呼ばれておるる大船の
つぎは鎌倉鶴が岡
源氏の古跡(こせき)や尋ね見ん

八幡宮の石段に
立てる一木(ひとき)の大鴨脚樹(おおいちょう)
別当公曉(くぎょう)のかくれしと
歴史にあるは此蔭(このかげ)よ

ここに開きし頼朝が
幕府のあとは何かたぞ
松風さむく日は暮れて
こたへぬ石碑は苔あをし

北は円覚建長寺
南は大仏星月夜
片瀬腰越(こしごえ)江の島も
ただ半日の道ぞかし

汽車より逗子(ずし)をながめつつ
はや横須賀に着きにけり
見よやドックに集まりし
わが軍艦の壯大を

支線をあとに立ちかへり
わたる相模の馬入川(ばにゅうがわ)
海水浴に名を得たる
大磯みえて波すずし