俳句的生活(266)-平塚(2)馬入村ー

江戸時代、平塚は58の村落から構成されていて、そのほとんどは旗本の知行地でしたが、重要な地域は幕府ならびに小田原藩によって支配されていました。馬入村は幕府の支配した処で、村高375石の内、旗本の知行地はわずかに17石あるだけで、残りは全て幕府の直轄領となっていました。馬入村の区域は現在の馬入地区よりも遥かに大きく、小字の構成は次のようになっています。

馬入村地図
馬入村小字絵図

この地図で興味深いのは、赤の矢印で示したところに堤防が築かれていることです。馬入橋脇からララポート湘南平塚に至る堤防で、現在は馬入緑道という1kmほどの遊歩道になっています。

馬入緑道

現在の相模川本流から500m前後離れている堤防ですが、かってはこの堤防が平塚側の生命線になっていました。堤防の東側は河川敷で、度々相模川の増水で田畑は流され、堤防も、明治40年、夏目漱石が修善寺で大吐血した年ですが、関東を襲った二つの台風で決壊し、平塚に大きな被害をもたらしています。

馬入村を特徴づける最大のものは、何といっても馬入の渡しです。天保年間に作成された新編相模國風土記稿には次のような挿絵が掲載されています。乗り場の造りはシンプルで、洪水で流されても直ぐに再建できるようなものとなっています。

馬入の渡し絵図
馬入の渡し(新編相模國風土記稿)

渡し場を管理した役所は川会所と称されて、その跡がホテルサンルートの脇に残されています。

川会所跡の説明板
川会所石碑

茅ヶ崎側から渡船で上陸したところは、すぐ東海道になっていて、商家の並ぶ馬入村の中心でした。現在は馬入本町と呼ばれているエリアです。これについても天保年間に描かれた絵が遺されています。

馬入村絵図
馬入村渡頭集落(相中留恩記略)

絵の中央、少し奥まっている商家は杉山家のもので、相模川で水運業を営んで財をなし、明治になっては初代の馬入村長を輩出し、明治15年には平塚江陽銀行をこの馬入の屋敷の中に作っています。この銀行は茅ケ崎の南湖の茶屋町にも支店を出し、後に横浜銀行となっていくように、湘南の金融機関の先駆をなしました。