俳句的生活(264)-蕪村の詠んだ京都(20)王朝趣味
蕪村の句のカテゴリーの一つに、実生活とはかけ離れた古典趣味・貴族趣味・王朝趣味・空想的虚構趣味の句を挙げることができます。主に平安朝の京都を素材にしたものですが、空想句ではない写生句においてすら、ことさらに「平安城」と詠み、王朝時代に結びつけようとしたものもあります。
ほととぎす平安城を筋違に (明和8年 蕪村56歳)
蕪村が自賛句として最高点を付けたものは次の句です。
行く春や同車の君のさゝめごと (安永9年 蕪村65歳)
「同車の君」とは貴族の牛車に同乗する女性のことで、「ささめごと」とはひそひそ話のことです。『蕪村全集』では 晩春の都大路を、女性の同乗した牛車が静かに行く。牛車の中で身を寄せた佳人が、尽きることなき睦言をささやき続けている。暮春の情と車中のささめ言との照応 と句意の説明がされています。
端的に王朝時代を詠んだ句には次のものがあります。
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな (明和5年 蕪村53歳)
鳥羽殿とは、白川上皇と鳥羽上皇が造営し、平安後期の院政の中心となった鳥羽離宮のことです。場所は旧鴨川が桂川と合流するあたりで、その広さは180万平方m、なんと現在の京都御苑の3倍にもなる広大なものでした。
この句は騎馬武者が鳥羽殿に急を告げるため駆けてる様を、季語「野分」を添えて詠んだものです。そこで鳥羽殿が関係するどの歴史的事件のものなのかを推理してみました。考えられる事件は、保元の乱、後白河法皇の幽閉、承久の乱です。鍵となるのは「野分」で、時期として台風のシーズンでなければなりません。承久の乱は後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を鳥羽殿で発したという関係ですが、時期が6月なので、まず対象外です。保元の乱は勃発時に崇徳上皇が鳥羽殿に居たという関係で、7月の出来事なので、対象となる可能性はあります。後白河法皇の幽閉とは、法皇が反平氏的行動をとったため、清盛が業を煮やして法皇を院庁の置かれていた法住寺から鳥羽殿に幽閉したという事件です。時期は11月ですので、私は平家物語に書かれているこの幽閉事件が有力だと思っています。幽閉後の鳥羽殿を平家物語では次のように描写しています。
法皇は城南(せいなん)の離宮にして、冬もなかばすごさせ給へば、野山(やさん)の嵐の音のみはげしくて、寒庭の月のひかりぞさやけき。庭には雪のみ降りつもりけれども、跡ふみつくる人もなく、池はつららとぢかさねて、むれゐし鳥もみえざりけり。おほ寺の鐘の声、遺愛寺の聞(きき)を驚かし、西山の雪の色、香炉峰の望(のぞみ)をもよほす。よる霜に寒けき砧のひびき、かすかに御枕につたひ、暁、氷をきしる車の跡、遥かに門前によこたはれり。巷を過ぐる行人征馬(こうじんせいば)のいそがはしげなる気色(けしき)、浮世を渡る有様も、おぼしめし知られて哀れなり。
”野山の嵐” という描写より蕪村は ”野分” という季語を結び付けたとも思われます。
承久の乱の敗北で、後鳥羽上皇の所有していた宏大な荘園は幕府に接収され、以後朝廷は鳥羽殿の荒廃を食い止める政治・経済力を失い、南北朝の動乱で完全に廃墟となってしまいました。江戸時代においても再建されることなく、蕪村の見た鳥羽殿は、鳥羽殿跡でしかありませんでした。芭蕉ならば、平泉のように「夢の跡」として句を詠んだのでしょうが、蕪村は王朝時代を空想し、絵巻物のように句を詠んで楽しんだのでした。
現代の感覚では、このような王朝趣味の句は好まれず、萩原朔太郎が評した郷愁的な句が良いと評価されますが、蕪村自身は違っていたようです。和歌などで、1000年もの間、古今集を踏んだ歌が持て囃されていた時代で、蕪村もそうした風潮の影響を受けていたものと推察します。
堂石に蟷螂むくろす離宮跡 游々子