俳句的生活(260)-蕪村の詠んだ京都(16)芭蕉庵ー
芭蕉は時雨を愛し、その忌日は時雨忌と称されています。蕪村の芭蕉への敬愛の情は深く、蕪村の「時雨」を詠んだ句には、芭蕉を踏んだものがいくつか見られます。
しぐるゝや堅田へおりる雁ひとつ (明和7年 蕪村55歳)
これは芭蕉を踏んだ蕪村の時雨の句の一例です。堅田は近江八景「堅田落雁」で名高い琵琶湖畔の地です。蕪村のこの句は、芭蕉の 堅田にてと前書きされた 病雁の夜寒に落ちて旅寝かな を踏んだものです。芭蕉の句は暗いイメージを宿していますが、蕪村の方は摸したとはいえ、どこかカラッとした明るさがあります。
蕪村の芭蕉への敬愛は更に進み、洛北金福寺で荒廃してしまっている芭蕉庵を再建するほどになりました。
洛北金福寺の芭蕉庵、芭蕉庵という名前から芭蕉が過ごした庵と思いがちですが、そうではなく、金福寺の鉄舟という住持がこよなく芭蕉を敬愛したことから、自分の過ごした庵を芭蕉庵と称したものです。芭蕉自身、元禄4年前後は割と長期に京都に滞在しているので、金福寺を訪れたこともあっただろうと思いきや、略年譜での行先の中には、金福寺に近くの詩仙堂へは元禄4年6月に見物した記録はあるものの、金福寺を訪れた痕跡はありません。
鉄舟のあと、70年も経た蕪村の時代には、「芭蕉庵」は荒れ果ててしまい、再建しようという機運が蕪村一門に起こり、発起人として立ち上がったのは、蕪村門の十哲の一人となっている樋口道立という人でした。道立の実家は京都で漢学塾を開いていた儒学者の家でしたが、川越藩の武士の家に養子となり、40歳のころ、川越藩の京都留守居役となり、京都に戻って来て居ていました。彼は俳句を好み、蕪村の門弟になるのですが、川越藩京都藩邸は、二条通の南、烏丸通の東にあり、四条烏丸西南の蕪村の家からは10分ほどの処という近さでした。
蕪村一門で芭蕉庵を復興しようというとき、真っ先に問題となるのは、その資金をどのように調達するかということでした。蕪村の門弟である樋口道立が京都留守居役であったことは、将に好都合で、上方において藩の物資の出入りに責任を持つ京都留守居役は商人に対して顔が効き、寄付を頼むことが出来たのです。蕪村門は資金調達のために写経社という組織を新たにつくり、芭蕉碑の拓本を頒布して行ったのですが、京都留守居役が中心人物として居たことは、頒布を進め易くしたことはいうまでもありません。
京都留守居役という役職ですが、川越藩と同じ規模の譜代の藩の例では、80石の中級武士が務めています。80石の武家がどの程度のものであったかですが、角館の武家屋敷の石高がその程度ですから、大体の生活水準は想像がつきます。
樋口家の墓は真如堂近くの極楽寺というお寺にあります。右端が道立の墓です。
金福寺には 四明山下の西南一条寺村に禪坊あり、金福寺(こんぷくじ)といふ。土人口稱(こうしょう)して芭蕉庵と呼。という一文で始まる蕪村自筆の洛東芭蕉庵再興記が、芭蕉庵完成を記念して納められています。この再興記の結びには、再興發起の魁首(かいしゅ)は、自在庵道立子なり。道立子の大祖父担庵先生は、蕉翁のもろこしのふみ學びたまへりける師にておはしけるとぞ。されば道立子の此挙にあづかり給ふも、大かたならぬすくせのちぎりなりかし。と、発起人である樋口道立を立てています。ここにも功績を自分一人のものとしない蕪村の人柄が現れています。
京都の時雨を好んだのは、高浜虚子もその一人で、京の時雨に遭遇するためだけの目的で京都に行ったりもしています。そのことは、また別稿に記したいと思います。
しぐるゝや孤舟の真菰ぬらすほど 游々子