俳句的生活(214)ー春の家族旅行ー

先週の土曜日曜日、1泊2日で那須高原と日光を巡る家族旅行をしてきました。那須高原ではスキーが目的だったのですが、連日の温暖日和でゲレンデが雪不足となり、ハンドルのついた橇での雪遊びをするだけになってしまいました。

那須高原

翌日曜は快晴で、久々の日光見物を楽しみました。コロナが下火となってきたせいか、大勢の人出に賑わっていました。私の様な歴史好きの人間は、”どうする家康” のつながりで来たようなもので、家康が何故、日光を自らの終の墓所とするよう遺言したのか、そこが興味のポイントでした。

宮の入口に、石で出来た大きな鳥居があり、建造者の銘として、黒田筑前守藤原長政というのが刻まれていました。

黒田長政

長政は黒田官兵衛の息子で、関ケ原で東軍についたことにより、福岡52万石の藩祖となった武将です。

日光のポイントは何といっても陽明門です。修復作業がおおかた終了し、ひときわ威容を誇っていました。

陽明門

しかし、家康の遺言では、なるたけ質素な墓所とするよう、子の秀忠には伝えていたのですが、孫の家光になって大改修を行い、現在のような姿になりました。

家康の廟は、奥宮の奥にあり、200段ちかい階段を登らなければなりませんでした。

家康廟

そこは江戸時代は将軍しか立ち入ることができない墓域で、一般人が参拝できるようになったのは、昭和40年になってからのことです。

将軍が日光に参ることは、日光社参と呼ばれていて、江戸時代に現役の将軍が社参したのは16回となっています。そのうち10回が家光ですから、自分を三代将軍として立ててくれた祖父家康を、余程敬愛していたのでしょう。将軍社参は、幕末の浮世絵師である月岡芳年が 錦絵として描いています。

8代将軍の吉宗も社参していますが、そのときに掛かった費用は、現在価格で200億円となるもので、米相場で蓄財したものを吐き出すほどのものでした。

明治になり、日光もご多分に漏れず、廃物稀釈の嵐が吹き荒れ、多くの堂塔が破壊されてしまいました。家康の廟が暴かれなかったのは、不幸中の幸いと言わざるを得ません。明治5年に赦免されて、日光宮司となった、元会津藩主の松平容保の献身もあったのではないかと想像しています。