俳句的生活(212)ーどうする家康(3)ー

NHKのテレビ番組で、私が最も興味深く視聴しているのは、「ブラタモリ」という番組です。この番組で、昨年12月に駿府、今年1月に足利、2月に前橋と放映され、どれもが家康と関連しているので、なお一層興味を持って視聴していました。駿府と足利が家康と結びつくのは自明ですが、前橋が何故家康かとなると、ピンと来る人は少ないのではないでしょうか。本稿はその関係を述べてみようとするものです。

テレビの方では前回、松平元康が名前を家康と改め、松平家康として登場してきます。「元」の字は今川義元から与えられた諱で、織田と攻守同盟を結んだあとは、憚られる名前となっていたのです。この後、三河では一向一揆が起こり、これを平定し名実ともに三河国を統一します。

三河一向一揆

そして朝廷からは、従五位下三河守に任じられます。同時期、信長の方は上総介を自称していただけで、朝廷からの正式な官位は無かったですから、信長と家康の関係は、ドラマのような上下関係のものではなかったのではないかと推測しています。それにしてもドラマでの中国風の清州城や、マントを着た岡田准一の信長は頂けませんね。

朝廷からの官位についての脱線話ですが、刃傷松の廊下・忠臣蔵、浅野内匠頭は従五位下、吉良上野介は従四位上で、身分の低い方が高い方に理由もなく刃傷したという事件で、大石内蔵助たちが主張した喧嘩両成敗は筋が通らない話だったのです。

家康が従五位下三河守に任じられた時期、家康は松平から「徳川」への改姓を行っています。この「とくがわ」ですが、実は家康の祖父である松平清康という人が、松平は上野国(群馬県)の得川氏の出であるとしていたのです。家康は「得」を「徳」に変えて「徳川」と改姓したのです。

この得川氏、新田氏の祖である新田義重の四男を家祖とする氏族です。新田義貞の方の新田宗家は、建武の動乱で亡びるのですが、多くの新田支族は、室町・戦国を生き抜き、江戸期に繋がっていきました。得川は、足利の室町幕府が消滅したあとは、貴重な源氏の末裔であるということになりました。征夷大将軍になるには、源氏の血筋が必要とされた時代で、家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開くことが出来たのは、たまたま祖父が得川氏の末裔であるとする系図を作ってくれていたことに依ります。

得川氏の領地は現在の群馬県新田郡太田市のあたりです。前橋からは東に15kmのところです。太田市には義貞がわずか150騎で挙兵した生品神社が国指定の史跡として整備されています。江戸・明治期を通じて国により保護されて来たのでしょう。

生品神社