俳句的生活(48)-明治43年の台風ー

関東で、100年に1度の洪水、というとき、100年前のものとして持ち上げられているのは、明治43年の大水害です。長引いた梅雨の後、2本の台風が相次いで房総と伊豆を襲い、8月15日より順次、利根川、荒川、多摩川など主だった河川は全て決壊‣氾濫、関東だけで800人の死者を出したという水害です。相模川では、厚木あたりで堤防が決壊し、床上5mの浸水をしたと記録されています。

今、日経新聞に「みちくさ先生」が連載されていますが、数日前の稿で、丁度この時期、漱石が修善寺で大患に遭うということ、そして鏡子夫人が、実家の母親(中根豁子)と子供たちとで、茅ヶ崎に海水浴にきていた、という内容のものが綴られていました。詳しい内容を調べてみようと思い、早速、図書館で鏡子夫人が残した「漱石の思い出」を借りて読んでみました。漱石は、修善寺に赴く前に東京の胃腸病院に入院していて、7月31日に退院、8月6日に病後の静養のため、一人で修善寺に向かい、8月24日に、逗留先の菊屋旅館で大吐血しています。子供たちは祖母に連れられて、7月中より茅ヶ崎の十間坂で家を借りて過ごしていましたが、鉄道が不通になる中、鏡子夫人は、修善寺と茅ヶ崎との連絡で、大変な思いで数日を過ごしています。母親を横浜の実家に戻し、子供たちの世話を十間坂の家の人に頼み、自分は修善寺へ向かうのですが、24日に漱石が吐血した時は、自分の着物が真っ赤に染まったと書いています。

十間坂は、八木重吉もそうでしたが、東京からの人達に、貸家を提供する例が見られます。駅から近いのと、海までの距離が1kmあまりであったのが好まれたのでしょうか。どの家だったのか、特定できれば面白いと思います。海水浴としての茅ヶ崎は、駅が出来て以降、発展していったのでしょう。漱石の海水浴では、なんといっても「こころ」での鎌倉でありますが。

相模川の洪水のリスクは、2019年の台風19号の時に、神川橋のところで、あわやという水位に達しました。幸いにして、ダムの放水が持ち堪えられたために惨事を招かずに済みましたが、もはや100年に1度という状態ではないので、ダムの事前放水など、ぬかりなく対策を実施していってほしく思います。

確率は意味を持つのか梅雨の雨

漱石の思い出