俳句的生活(47)-花の茅ヶ崎ー

”花咲き花散る宵も~”で始まる東京ラプソディ、昭和11年5月に藤山一郎が歌い大ヒット、同年11月藤山一郎主演で映画化、こちらも大ヒットした。歌は、銀座、神田、浅草、新宿とめぐり、最後は全て”花の東京~”で締められる軽快ソングである。同年2月には、陸軍青年将校によるクーデター未遂があり、大分きな臭くはなって来てはいたが、日中戦争が始まる1年前であり、戦前日本がピークに達していたときであった。

面白いのは、映画で主人公役の藤山一郎が働く有楽町のクリーニング店の向かいが花屋になっていて、その名前が「茅ヶ崎植木 西銀座店」というのである。当時、茅ヶ崎のもう一つの顔が”花の茅ヶ崎”だったのである。

その背景というのは、「サカタのタネ」が昭和5年に、茅ヶ崎中島に試験場を作り、新品種の花を次々と世に出していったからである。とりわけ、八重咲のペチュニアの開発に成功し、海外にも高値で輸出されて、茅ヶ崎ブランドは一躍有名になったのである。

太平洋戦争がはじまり、世情が花どころではなくなると、茅ヶ崎試験場は一時荒廃するが、サカタのタネが戦後復興していったのも、茅ヶ崎試験所の寄与が大きいのである。このときの主力はやはりペチュニアで、サカタは世界の園芸界で”ペチュニアのサカタ”と呼ばれ、花の育種会社として不動の地位を占めるようになった。茅ヶ崎試験場は、昭和35年まで続き、長後のより大きな試験場に吸収されて、その役割を終えた。中島にこういうものがあったのかと、跡地を探索したい昨今である。

ペチュニアを運ぶ車や西銀座

追記:坂田の茅ヶ崎試験所の場所は、小出川と東海道線が交わっている角の土地で、現在マルハン、竜泉寺の湯、結婚式場になっている処です。閉鎖されるのは昭和35年ではなく、もっと長く続いています。(2021.8.7)

ペチュニア
ペチュニア