俳句的生活(46)-藤間柳庵ー

今日、久しぶりに柳島の藤間資料館を再訪しました。幸いなことに、来訪者は私一人であった事により、Tさんという茅ヶ崎市の文化財担当であった方が、資料館の説明員として、私一人につきっきりで説明をしてくださいました。柳庵については、俳句的生活(10)と(36)で既に綴っていますが、新たな情報をもとに、再度掲載することに致します。

藤間家は、江戸期、農業と廻船業を基盤として代々名主を務めていましたが、農業については、田畑の広さ六反余でしかなく、主は廻船業でした。藤間家では、荷物の海上輸送の運賃の他に、穀物商も営んでいましたので、利益は莫大なものであったと言われています。今日は、室内に置かれていた二艘の四百石船の写真を撮らせて貰いました。観音丸と弟船である不動丸です。不動丸が新造されたとき、それを祝って柳庵が詩文をつくり、扇の両面に貼って知人に配ったということで、その文章と扇の写真が、茅ヶ崎市史料集「雨窓雑書」に載っていましたので、扇の写真を添付します。不動丸が荷を積んで江戸に向かった時、ペリーの黒船と遭遇して、急遽柳島湊へ引き返した、ということを、柳庵は記録しています。観音丸と不動丸の絵には、二艘とも舳のほうに3つの錨が描かれています。この錨は、6個とも柳島の下水処理施設を作るときに地中から出て来て、2mの大きさのものだそうです。今日はこの錨が置かれているところまで行けませんでしたので、次の目標とします。

柳庵は優れた文人で、俳句も多く残しています。「雨窓雑書」の文政十年の発句(夏の部)に、

水売りの月を片荷に帰りけり

というのがあります。「水売り」とは、天秤で冷水を担いで、白玉を売っていくことですが、片方の荷の桶のわずかに残る水に月を宿して、貧しくも楽しい我家に帰る、という句意です。素晴らしい句だと思い、紹介します。

資料館ではあと、広重が描いた馬入の渡しの船の浮世絵がありましたので、これも写真に撮らせてもらいました。船は想像していた以上に大きいです。Tさんは、縄文・弥生の考古学が専門ということなので、これから多くのことを教えて頂けそうです。

守りびとの誇る泰山木の花

観音丸の絵
観音丸の絵
不動丸の絵
不動丸の絵
広重の描いた馬入渡し船
広重の馬入の渡し船
不動丸新造船之記
茅ケ崎市史料集7「雨窓雑書」より