俳句的生活(44)-九代目市川團十郎ー

茅ヶ崎に別荘を持った文化人で最大の大物は、なんといっても、明治の歌舞伎界で劇聖と謳われた九代目市川團十郎でしょう。彼が1万坪の敷地に別荘を建築したのは、60歳となった明治30年のことで、以降6年間、1年の半分をこの別荘で過ごすことになりました。残り半分は勿論、歌舞伎の興行を務めていたということです。

それでは別荘では何をしていたかということですが、3つのジャンルに分けることが出来ます。一つは、政財界人や文化人の訪問の応対です。川上音二郎や貞奴との交友はこのジャンルに入るものです。二つ目は弟子の教育、三つめは趣味の釣りに興じたことです。今日はこの二つについて綴ることに致します。

團十郎には、実の男子がいませんでした。そこで盟友の五代目菊五郎の二人の息子を預かって傍に置き、内弟子的な教育を施しました。まだ十代の子供でしたが、後に六代目菊五郎、六代目坂東彦三郎として大成した二人です。六代目といえば菊五郎を指すことは、周知のとおりです。

少し脇道にそれますが、團十郎には二人の娘がいました。その長女が恋愛結婚して、慶應義塾を出た銀行員を婿として迎えました。團十郎が亡くなる2年前のことです。團十郎はその結婚に異を唱えることなく認めています。その婿さんは歌舞伎には全くの素人でしたが、30歳あたりから役者となり、本格的な跡継ぎを松本家から養子として迎えます。十一代團十郎で、現在の松本白鴎、中村吉右衛門の伯父さんになる人です。そしてその婿さんは、死後十代目の團十郎を贈られることになりました。

釣りについては、團十郎は自ら網主となり、本物の漁師のようなことをやっていました。船を数里沖まで出させて、鰹のような大物を釣っていたのです。茅ヶ崎に別荘を構えた理由の一つが釣りであっただけに、このことについては多くの回顧談が遺されています。

團十郎の死は、将に巨星堕つ、という観がありました。東京の本葬では、伊藤博文から弔文が寄せられ、川上音二郎によって代読されました。参列者は5000人を超え、團十郎が生前に、榊のみ寄贈を受けるとの意志をしめしていたため、東京市中の榊は前日に底をついたということです。

浅草の浅草寺には、鎌倉権五郎を演じる團十郎の像が建てられています。権五郎は懐島を拓いた大庭氏の祖であるので、ここにも縁を感じます。

朝顔や富士みる庭に咲きにけり

Ichikawa Danjuro Ⅸ Statue 01.JPG
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ウィキペディアより引用「九代目の鎌倉権五郎像」