俳句的生活(43)-大岡家の人々ー

茅ヶ崎には大岡祭というものがあるように、大岡越前守は、郷土のヒーローとなっています。が、旗本として、更には大名として、大岡家が茅ヶ崎および浄見寺とどのような繋がりであったのかを正確に知る人は、茅ヶ崎に住む人でも少ないと思います。その理由は、大岡家というものが、一本の家系ではなく、4つに分かれて明治を迎えたためです。今日は、そのところを解き明かしていきたいと思います。

NHK時代劇の「大岡越前」で、津川雅彦さんが、東山さん演じる忠相の父親、忠高を実に洒脱に演じて、いつも視ていたのですが、残念ながら史実ではないのです。添付の大岡家の系図に記されているように、忠相は一族の養子に出ていて、成人後に実父と同じ屋敷に住むことは無く、更に忠高は、忠相が江戸町奉行になる16年前に死亡しているのです。

系図に示された、忠勝-忠政が忠相たちの祖先です。忠勝は家康の祖父と父親に仕えた人です。忠政は、家康に従って三方ヶ原、長篠、長久手と戦って、家康が関東に入った時に、茅ヶ崎の地、堤村で380石、大曲村で220石の知行地が与えられました。これが大岡家と茅ヶ崎の最初の繋がりです。

忠政には3人の男子がいました。長男忠行は、大岡本家の家督とともに、堤村の知行地を受け継ぎます。次男の忠世は、父親の知行地のうち、大曲村220石を譲られて分家します。忠世は頑張って、920石まで知行を増やし、忠相はこの家に養子で入ったのです。三男忠吉は、家康の側に仕え、高田村160石の知行を得て分家します。忠吉は秀忠にも仕え、石高を一代で2300石にまで増やして、この時点で一番の出世頭となりました。

ここまで、大岡家は3家に分かれましたが、全て本貫地を相模国高座郡に持っていました。墓地も共通で、堤村の浄見寺に葬られています。このなかで忠相が、吉宗に見出されて、江戸町奉行、寺社奉行と出世していき、最終的には、西大平藩という岡崎をベースとする1万石の大名にまでなったことは、周知のとおりです。

ここで見落としてはならないのが、忠吉の次男の忠房です。彼は父親の2300石の中の300石の知行を相続し、3番目の分家となります。彼の家系で曽孫となる忠光が傑出した人物でした。彼は忠相より35歳年下で、忠相が吉宗に仕えたのに対して、忠光は吉宗の子で九代将軍となる家重に仕え、病弱の家重を善く補佐し、最終的に西大平藩の倍以上の2万3千石で、武州岩槻藩の藩主となります。家重の治世は、将軍が病弱であったため、いい印象で語られていませんが、実際は部下として忠光と田沼意次を擁して、江戸期最高の時代であったと思っています。岩槻藩は知行地として、高麗郡を含み、高句麗からの人達の最後の領主は大岡一族ということになりました。

このようにして、大岡一族は、二つの大名家、二つの旗本家として明治維新を迎えました。維新政府は、幕領と旗本領は全て召し上げて新政府のものとします。その措置にたいして、高座郡を本貫地とする3つの大岡家は、浄見寺のある堤は何としても大岡のものとして残しておきたく、西大平藩に繰り入れることに成功しました。これによって初めて忠相の家系が、浄見寺の護り主となったのです。

浄見寺は、明治政府の廃仏毀釈もあって、明治の末には住職は小学校教員をして生計をたてるまでに困窮しました。その復興は、大正元年に、忠相が従四位の官位を授けられ、その贈位を、忠相の墓前で報告するために浄見寺を訪れた時の大岡子爵が住職と会い、補助をすることを約束し、強い絆で結ばれて現在に至っている、ということです。

ランナーの靴の弾むや立葵

大岡家の系図
「茅ヶ崎市史ブックレット12 ちがさきと大岡越前守」より