俳句的生活(35)-弥生時代の茅ヶ崎ー

南関東全般がそうであるが、茅ヶ崎は、日本で一番遅く、弥生時代となった地域である。弥生時代を特徴づけるのは稲作であるが、その稲作の伝搬が、日本で一番遅くなったのである。朝鮮半島経由で北九州に伝わった稲作は、時間をかけて徐々に東へと拡がっていった。そのルートは二つあり、一つは海路、もう一つは陸路。海路とは、日本海沿岸を船で東へ北へと進むコースで、この海路は既に縄文の時期に、糸魚川の翡翠が青森の三内丸山遺跡で見つかっているように、大いに発達していたのである。当時は日本海側が表日本であったのだ。もう一つのルートである陸路は、尾張・駿河を東上するコースで、それが箱根で邪魔をされ、甲斐に向かい、信濃を経て北関東へ入っていったものである。茅ヶ崎への伝搬時期としては、縄文海進の海が引き揚げていって、海岸線がほぼ現在と同じになった2000年前ぐらいのことであろうと、筆者は推測している。茅ヶ崎は裏日本であった。

茅ヶ崎に残る弥生の遺跡は、西方貝塚が発見されているところと同じ下寺尾で発見されている。外環濠で囲われた面積は、南関東で最大のものであるが、吉野ケ里の外環濠内の面積と比較すると、4分の1でしかない。稲作生産が遅く始まったために、権力の集中、集落の集中が吉野ケ里ほど進まなかったためである。このことは、古墳についてもいえて、堤に二基ある十二天古墳は、どちらとも30mの大きさでしかない。弥生の遺跡が縄文と重なっていることは全国でも珍しい例である。しかも律令の時代においては官衙がつくられているのである。同じ血筋の人達が累々と代を重ねてきたことが考えられ、余程この下寺尾の土地は住みやすい所だったと、思うのである。権力の集中が起こらなかったため、南関東は、魏志倭人伝で述べられているような、いわゆる倭国大乱にも無縁だったに違いない。稲作の伝搬が遅くなったことは、幸いだったともいえるのである。

当時、関東の中心は北関東であった。早くに稲作が伝搬していたためである。南群馬・南栃木は毛野と呼ばれ、大きな豪族が支配していたと思われる。埼玉の行田では、雄略天皇であろうと推定される大王より下賜された鉄剣までが発掘されている。茅ヶ崎にはそうしたものが出てこないのである。

ところが律令時代になると、状況は変わってくる。関東への入口となる足柄峠が整備され、人が通行できるようになったためである。足柄峠の東が関東と呼ばれるようになり、南関東が北関東に代わって関東の中心になっていくのだが、このことは、別途綴りたいと思う。

赤米の育つ田圃や鴨涼し

下寺尾官衙遺跡