俳句的生活(34)ー縄文時代の茅ヶ崎ー

縄文時代、海はもっと内陸部まで入り組んでいたといわれるが、茅ヶ崎はどうであっただろうか。それは、縄文時代の貝塚がどのように分布しているかで、大体のところは見当がつく。茅ヶ崎では、東端に堤坂下の堤貝塚、西端に下寺尾の西方(にしかた)貝塚があり、その間のもの3つも、概ね大岡越前通りに沿って発見されている。従って、大体このあたりまで海が迫っていたと推測できるのである。

越前通りを自転車で走ってみるとよく分かるのだが、東を向いたとき、左手は芹沢の丘陵地があり、右手には、小出川の支流である駒寄川が流れ、その先には矢張り小高い丘陵となっているのである。こうした地形から、海は細長い入江として、堤坂下まで入ってきていたのである。

生命の星・地球博物館が、年代による海面の高さと6000年前の海岸線の地図を提供してくれているので、おおよそ以上の説明が裏付けられると思う。地図によれば、相模川流域はずっと奥まで海となっている。寒川神社の資料館で、古代、海は直ぐ近くまで来ていたという説明があったが、それとも符合するのである。下寺尾の高座郡官衙は芹沢丘陵の西端に位置している。その下には弥生と縄文の地層が眠っている。人間が生活するのに好都合な土地だったのである。

遠つ祖は氷河を渡り来たるかな

堤貝塚
西方貝塚
同 引用